2010年12月15日水曜日
受動と能動
たとえば新聞を読むことは、能動的に何かを知ることだ。毎日ポストに投げ込まれる新聞を毎日読むことはそれなりのエネルギーを必要とする。紙面に敷き詰められた活字を目で追いながら、内容を頭の中で組み立てニュースを吸収していく。内容が複雑で一読しても理解できない場合はもう一度読み返す。そうやってじっくりと社会の出来事や世界の情勢を自分の中に取り込んでいく。真面目に読めば読むほど、社会や世界の現実を共有することができる。
たとえばテレビを見ることは、受動的に何かを知ることだ。「さあ知ろう!」と構えなくても、ただテレビの前でぼーっとしていれば、ニュースは耳に入ってくる。画面の中のアナウンサーは、耳で聞いていれば理解できるような言葉であらゆる事実を語ってくれる。その声は、どんなに周囲に無関心を払っている人の耳にも届くだろう。
メディアとしては、どちらも必要なのだ。それぞれに利点欠点を補い合って、人々に事実を伝えていく。そうして発信された情報は誰かにとっての何かの「きっかけ」になるかもしれない。「知る」ことで、人は何かを考えたり、疑問を抱いたり、怒ったり悲しんだり、会ったこともない遠い国の人を思ったり、他人の喜びや苦痛を想像したりもできる。
人が人を思いやるには、ある程度その人の置かれている状況を知っているという前提が必要なのだ。現実を共有することで、共感の翼は大きく広がっていく。その翼に包まれた世界は、きっとわるくない。
悩んでいる。ぼくは何を通して伝えるべきなのか。今日参加してきたNHKのセミナーは、メディアを見る視点を広げてくれた。「理解を深める報道」か「誰にでも届く報道」か。僕の原点、価値観、正義。すべてを研ぎ澄ませて、媒体を吟味していきたい。
2010年11月9日火曜日
六ヶ所村
六ヶ所村の強い風で平行に飛び交う雨は、傘の下から直接ぼくの靴とズボンを打った。
本州の北端・下北半島の付け根に六ヶ所村はある。なだらかの丘陵地形で、北西から強い風がいつも吹いている。海とつながる淡水の沼や湿地がいくつも点在し、曲線の丘と相まって美しい景観を創り出す。新鮮な海の幸が周辺の漁港に上がり、小さな小川には鮭が遡上してくることもある。冬を運んでくる秋風を受け止めるように何十基もの風車が立ち並び、山や空とのコントラストが味わい深い絵になる。人間の目線から村を眺めると、とても美しい自然や風景が広がっている。
一方、六ヶ所村を上から見下ろすと、不自然なものが見える。白い大きな箱のような建物。原子燃料サイクル施設(原子燃料をもう一度使えるように加工する施設)だ。その他にも石油を備蓄するタンクが50基近く並ぶ石油備蓄基地もある。原子力、風力、石油。六ヶ所村は日本のエネルギー事情を集約したような地域のように見える。
「沖縄と同じ構図があるのかもしれない」と考え、ぼくはこの地を踏んだ。一泊二食4500円の安宿を三泊分予約し、着替えと折り畳み傘と少なくない現金を持って、新宿・スバルビルの前から発車する夜行バスに乗って青森へ向かった。青森から電車と路線バスを乗り継ぎ2時間。雨風吹き荒れる六ヶ所村にたどり着いたのだ。
原子力関連の施設がある、という程度の知識しか持たずに来てしまったため、まずは六ヶ所村の抱えるものの正体を探った。
「原子燃料サイクル施設」とは、日本の将来のエネルギーを考える上でかなり重要なものらしい。食べ物を腐らせずに保存するためにも、温かいお湯に浸かるためにも、ドラマやバラエティ番組や速報を見るためにも、髪の毛を乾かすためにも、室内を快適な温度に保つためにも、手では拾えない塵を集めるためにも、歩いたり走ったりせずに移動するためにも、ぼくらはエネルギーを使う。石油・石炭、風、水、地熱、バイオマス、原子力、これらから得られるエネルギーは電気という形に変わり人間の生活を支えている。
中でもエネルギー源としてその活用が現実的に期待されているものが原子力だ。石油・石炭などの化石燃料はそのほとんどを政情不安定な中東からの輸入に頼り、万が一のときに供給の保障を担保できない。さらに地球の未来を考えるとよくない。水力・風力などの自然エネルギーでは需要をまかないきれない上、気象によって発電量が左右される。となると、温室効果ガスも排出せず安定的の膨大な量のエネルギーを生み出せる原子力に期待が寄せられるのも自然な流れなのだろう。
しかし、原子力発電にも限りはある。発電に使われるウラン鉱石は、石油や石炭と同じように採掘可能な量が限られているからだ。ちなみにエネルギー資源の可採年数はそれぞれ石油約42年、石炭約122年、天然ガス約60年、ウラン約100年(資源エネルギー庁発行資料より引用)となっている。ウランが有限の資源ということはそれを使用する原子力発電も決して半永久的なエネルギー源にはならない。と、思えるのだが、このウランを飛躍的に、長期間の使用を可能にするシステムがある。
プルサーマル。
原子力発電所で使用した後の核燃料(使用済燃料)をから取り出したプルトニウムを、ウランと混合してMOX燃料(Mixed Oxide Fuel)に加工し、原子力発電所(軽水炉)で利用することを指す。プルトニウムをサーマルリアクター(軽水炉)で利用する、という意味でそれぞれの言葉の頭を取って呼ばれている。
通常のウラン燃料には燃えやすいウランが全体の3〜5%、燃えにくいウランが全体の95〜97%含まれ、この燃えやすいウランが核分裂を起こしエネルギーを生み出している。同時に、ウランの核分裂中にはプルトニウムが生成され、これ自体も核分裂するため、発電エネルギーの1/3はプルトニウムが生み出している。
発電所で使い終わったウラン燃料(使用済燃料)には、ウランを燃やすことで発生したプルトニウムと燃えにくいウランが残っている。これらのうちまだ使用できるプルトニウムやウランを取り出し、合わせ、加工し、ウランよりもプルトニウムの発電寄与割合が大きいMOX燃料が出来上がる。これを利用することでウラン燃料を繰り返し利用できるようになるため、プルサーマルは原子力の安定供給になると期待され、原子燃料サイクルの要となっているのだ。
六ヶ所村は、使用済燃料をMOX燃料に加工するための施設を持ち、原子燃料サイクルという将来の日本のエネルギーを担う事業を受け入れた場所なのだ。
しかし、原子燃料サイクルは六ヶ所村だけでは完結しない。発電とともに生み出される高レベル放射性廃棄物の最終処分場の受け入れ先が未だ決定していないからだ。使用済燃料を再処理しMOX燃料に加工すると、廃液というかたちで放射能をもつ廃棄物が発生する。これをガラスと合わせて、安定した個体に変え地中深くに埋めて処分しなくてはならない。この最終処分場をどこに作るのか、ということが課題となっている。現時点で、候補地として名乗りを上げている自治体は無い。
放射性物質の捨て場を提供する地域などあるのだろうか。たとえあったとしても、数百年という長い時間放射性廃棄物を抱えることになる地域には、風評や偏見といった負のイメージが付き纏う恐れもある。原子力を将来的に日本の主要なエネルギーと位置付けるのであれば、原子燃料サイクルの確立は重要な条件であり、そのためにも最終処分場をどこかに作らなくてはならない。
だれかの負担が、日本を支える。どこかのだれかが重荷を背負わなければならない。沖縄の基地問題にも見られた構図が、原子力発電にも映し出されている。
六ヶ所村にもこの構図が当てはめられると、はじめは思っていた。放射性物質を扱っている施設のすぐ近くで暮らすことに伴うリスクが、少なからず存在することは確かだからだ。
「そりゃあ不安はあるよ。でも、もう日本政府を信じるしかない」。お世話になった民宿の主人はあきらめにも似た言葉をこぼした。好意的ではないにせよ、‘‘再処理施設がある‘‘、という現実を受け入れた人の言葉だったの。
六ヶ所村と沖縄とは、状況が微妙に異なっているのかもしれない。誰かが負わなければならない負担がある。それが生活の中に存在することを「当たり前」と感じるか「なぜ私たちだけ」と怒るのか、両地域の住民の無意識な認識の違いが、二枚並べられた間違いさがしの絵のように、構図の微妙な差異を生み出しているのだろう。
2010年10月12日火曜日
OKINAWA×BASE 「本土」
羽田空港に戻ってきて、JALの飛行機から降り、荷物を拾って、川崎へと向かう京急に乗り込んだ。車内は旅行帰りの人で混みあい、大きなザックを抱えたぼくは身動きをとれなかった。川崎からJR南武線、武蔵溝の口から東急田園都市線を乗り継ぎ下宿のある用賀に着いた。
この間、誰とも、一言も話すことはなかった。帰り方はわかっているから人に道を尋ねる必要はないし、もの珍しいこともないので特に足を止めることもない。黙々と重い荷物を背負って、何も見ず、何も聞かず、ただ目的地に向かっているだけだった。旅の終わりを感じた。都会の日常に再び立たされた。陰鬱な気分だった。
「学生」、だからなのかもしれないが、ぼくの日常は閉鎖的だ。毎日、大学という安全な場所(ある程度、自分で自由な時間を過ごせる居心地のいい場所)に通い、友人と話したり、退屈な講義を聴いたり、図書館で本を読んだりしながら気ままに過ごす。休日はアルバイトをしていることがほとんどだ。そこにはそこでの出会いや発見があり、自分の成長を実感することもある。ぼくはずいぶんと長い間、こういう時間や生活を満喫してきた。
ただどこかで、物足りなさを感じていた。いま、この時間を深く生きているのだろうか、という不安が常に側にあった。ぼくにとってのいまは、ぼくにとってのいまでしかない。自分に見える範囲、自分に聞こえる範囲、自分で考え、悩める範囲にしかぼくの現実は存在していなかった。
沖縄の旅を通して、その不安に対する答えをつかみつつある気がする。帰りのJALの機内で書いた日記に、ぼくはこう書いている。
「この旅はたくさんの人に支えられたと思う。計画も立てず、足も持たず、身一つ、思い一つで沖縄に来たからこそ、ぼくは多くの人に頼ったし、頼ることを楽しめた。人間は、人間とのつながりがあれば生きていけるのではないかと思えた。『つながり』。生きるうえで何よりも大切なものかもしれない。人に頼って、人に頼られて、つかずはなれず、持ちつ持たれつ、生きていけばいい。自分だけで全てやろうとしなくていい。他人がいてぼくがいる。ぼくがいて他人がいる。そう思うと少し楽になれる。とにかく、この旅を支えてくれた人々に感謝の気持ちでいっぱいだ」。
「名護に着き(一度名護を去ったあと東京へ帰る前に再び立ち寄った)、選挙事務所を訪ねた。『お世話になりました』、とあいさつした。『また来てね』と言われた。出会いは財産だ。何も持っていなかったぼくが、いま沖縄につながりをつくれたのだ。この出会いは、宝だと思う」。
「人とつながること」。多分、このことがいまを深く掘り下げ、現実を自分の日常からさらに広げてくれるのだろう。沖縄へ行き、実際に問現場の空気に触れ、当事者と話し、意識を同調させることができたからこそ、これからも基地問題に関心を持ち続けることができる。閉鎖的な日常からでも、出会った人々に思いを馳せ、何かある度にその時々の当事者の心境や表情を想像しようとするだろう。ぼくのいまは、沖縄のいまとも少しは同調できるようになった。
最後にもう一度問いたい。
「これは人間の問題よ。沖縄の問題じゃないの」。
と語ったおばあの言葉の意味を。
沖縄の基地は、沖縄に大きな痛みを残している。あばあの言う「加害の意識」もその一つだ。そういった痛みを沖縄の人々が抱えているということを、まずは知ってほしい。想像してほしい。そして、それとどう向き合うべきか考えてほしい。人間の問題。基地があることで、人間の尊厳が脅かされているということにまで意識を巡らせてほしい。
沖縄には変化のうねりが生れつつある。あきらめかけていたことに、もう一度向き合おうという思いがある。稲嶺市長の誕生や、名護市議選での結果はそれを物語っている。しかし、何度も言うようにこれは沖縄だけの問題ではない。本土で、沖縄のうねりが波となって広がるかどうかが試されている。だからこそ、ぼくは長々とこれを書いてきた。少しでも、沖縄の現実を伝えるために。
沖縄に関する報道を、ただ受け取るだけでは足りない。それについて何かを考え、自ら勉強して知ることも必要だと思う。知らなければ、何が正しくて何が間違っているのか判断できないからだ。
重苦しく考えなくてもいい。まずは沖縄について知ることが第一歩だ。ふらっと遊びに行って、現地の人と少し話すだけでもいい。そのくり返しが、沖縄と本土との距離を縮めてくれると思うから。
2010年10月9日土曜日
OKINAWA×BASE 「高江」
耳慣れないセミの鳴き声が森中から聞こえた。周りの深い亜熱帯の森を割るように味気ないコンクリートの道路が一本だけ目の前に横たわる。道路沿いには作りかけのトタンバリケードがあり、その奥に進むと金網越しに一面アスファルトのひらけた場所がある。大きさはテニスコートの一面程度。ヘリパッド(ヘリコプター離着陸帯)だ。
米軍北部訓練場は沖縄本島の北部に位置し、7800haもの広大な敷地面積を有する。主にジャングルでの戦闘訓練やサバイバル演習などに使用され、ベトナム戦争時にはゲリラ戦の訓練なども行われていた。実弾やヘリコプターが飛び交うこの危険区域に隣接する小さな集落が、東村高江地区だ。
高江に来るまでに、またひと手間かかった。名護市議選での街頭立ちを終えたぼくを、選挙事務所の人が車で高江まで送ってくれることになっていた。だが、行く前に、東村の別の地区でチラシ配りを手伝うことになった。東村でも村議会選挙が近づいていたのだ。
名護から東村まで車で約1時間。車窓からは、浜が多く空が広く見える西海岸沿いと、断崖と青い海が見渡せる東海岸沿い双方の景色を楽しめた。送ってくれた事務所の人から、車内で高江のヘリパッド問題や村議会の話を聞いた。
高江では、米軍の新ヘリパッド建設を巡り、住民による反対運動が起きている。1995年、米兵による少女暴行事件を機に沖縄県民の反米、反基地感情が高まる中、SACO「Special Actions Committee on Okinawa 沖縄に関する日米特別行動委員会」が設置された(SACOは、県民の「基地の整理縮小」という要求を受けて発足したものの、実際には「基地の尖鋭化と再編強化」の意図があると県民側は感じている)。1996年、そのSACOの決定に日米両政府が合意した「SACO合意」によって、北部訓練場の約半分が返還されることになった。しかし、その条件として返還される部分(国頭村側)にあるヘリパッドを高江に移設するということも決められていた。
もし高江に新たなヘリパッドが建設されれば、住民の負担が増えるのはもちろんのこと、辺野古、伊江島飛行場、金武町のブルービーチに建設が予定されているヘリパッドを基点に、沖縄本島の北部全体を米軍のヘリコプターやオスプレイ(新型の飛行機、両翼についたプロペラが離着陸時の垂直方向から飛行時の平行方向へと可動する。試験時に事故が多発している不安定な飛行機)が飛び回ることになる。
この事態に東村としても反対を表明するのかと思いきや、議会はうまく機能していないらしい。ヘリパッド建設反対の立場で立候補し当選した村長は就任と同時に意見を変え容認の立場へ転じた。議員らは議会でほとんど発言もせず座っているだけ。そんな頼りにならない村政を尻目に、住民は建設現場への座り込みなどをして反対運動を続けているという。
高江の事実を知った後のチラシ配りは、気が重かった。軽自動車で山間の小さな集落を回り、チラシをポストへ入れていった。家に人が居ればあいさつをするが、返ってくる反応に元気はなかった。地域によって、選挙への関心の具合がまちまちであることに気付いた。街に暮らす人の方が、反応を見る限りでは関心が高い。田舎の方では、大きな変化を嫌う気質があるのか、関心はそう高くないように感じた。蒸し暑さの中でのチラシ配りを終え、ようやく高江に着いた。
座り込みを行っているテントへ行くと、若者が一人、テントの下でイスに腰掛けていた。聞けば東京から来た大学院生とのこと。高江には何度か座り込みに来たことがあるようで、その日もたまたま住民の代わりに見張りをしていたたようだ。高江の座り込みには人手が足りていない。
後に集落の人が来て詳しく闘争の日々について教えてくれた。ヘリパッド建設工事は2000年から始まった。すぐに住民は作業現場に座り対抗した。ときどき、現場に作業員や防衛局員が来るものの、粘り強い監視と座り込みで工事に大きな進展はなく、状況は落ち着いたかに見えた。
しかし、2008年、国は「座り込みは工事を妨害している」とし、住民15人を相手に「通行妨害禁止仮処分命令」を那覇地裁に申し立てた。国は住民との話し合いでなく、司法の力を用いて工事を進めようとした。結局、国が裁判所へ提出した書類の内容は、人違い、車両、行為の特定が十分でないなどずさんだったため申し立てはほぼ却下された。が、住民のうち2名には「妨害行為があった」という決定が出された。この2名は「ヘリパッドいらない住民の会」の共同代表に名前があったために、決定に差が出たとされる。
「自分たちに非がないとわかっていても、訴えられることはショックだ」と、当時の心境を住民の方が話してくれた。精神的にも、体力的にも、金銭的にも住民に負担を与える。そして反対運動をあきらめさせる。国の申し立てにはそのような狙いが透けて見える。
沖縄の旅の最終日、ぼくは高江の座り込みに参加した。朝8時、昨日知り合った東京の大学院生と一緒にテントを開け、資料を置いて、イスに座る。後から住民の方が一人来て、計3人で座り込む。ただただ座り込む。ほかにやることもない。セミの鳴き声がやたらうるさく脳に響く。その退屈さが苦痛だった。当事者の住民はこれに加えて「本当に中止できるのか」という不安と毎日闘っている。辛いだろうし、悲観的になりかねない状況だ。それでも闘う。雨でも風でも、毎日毎日、座り込む。
ときどき、車が止まり、県内、県外から来た人も一緒に座り込む。高江が勝つためには、こういった外からの援助も必要だ。住民だけで闘い抜くことは大変だろう。それに、少し前にも言ったが、基地問題は沖縄(当事者)だけの問題ではない。日本人誰もが目を向け、考えるべき問題なのだ。この小さな集落から、大きな問題がぼくたち本土に住む人間に投げかけられていることを、知ってほしい。
OKINAWA×BASE 「名護・市議選」
「タ、ク、マ、タ、ク、マ、タクマを、よろしくお願いします」。
軽快な音楽と一緒に、選挙カーから発せられる声が名護の街に響いていた。名護市議選。市民、県民のみならず、日本政府も結果を気にかける重要な選挙。その投票日の3日前にぼくは名護の街にいた。
辺野古のテント村の人の紹介で、名護市議選候補の方の選挙事務所にお邪魔させてもらった。選挙を少し手伝えば、その事務所の方々が利用している宿に安く泊まれると聞いたからだ。手伝いと言っても、そこへ着いたのは夕方で、その日は何もすることがなかった。退屈そうにイスに座っていたぼくに、事務所の女性(彼女は沖縄の基地問題に関する本を何冊も書いている、元編集者のけっこうすごい人だった、と後に知った)が疲れた表情でぽつりとつぶやいた。「選挙は本当に大変」と。
今回の市議選は、普天間基地の辺野古への移転に大きく影響する選挙だ。現名護市長の稲嶺進氏、辺野古への普天間代替施設の建設を、明確に拒否している。名護市民にしてみれば(無論、容認派にしてみれば話は別だが)希望の光ともいえる存在だ。現在(ぼくが沖縄に居たとき)、市議会での市長支持派は過半数を割り込んでいる、稲嶺市政を支えるためには、今回の市議選で市長を支持する議員が過半数の議席を確保しなければならない。もし、稲嶺市長支持派が過半数を占めると、代替施設の建設の建設にNOを突きつける気運がより強まることになる。
それだけ重要な選挙なのだから「大変」だということもわかる。が、その女性の言う大変さは、沖縄の選挙の別の側面を意味していた。
地縁、血縁、土建屋。この3つのものが沖縄(いや、日本全体にも言えることかもしれない)の選挙を支配しているという。住民にとって投票の基準となるのは、候補者との距離だ。親戚や知人、知人の親戚、親戚の知人、であるかどうか。自分の住む地区、地域の出身であるかどうか、自分の会社に利益をもたらす候補者かどうか。個人の思想や信条とは関係なく、自分と距離の近い候補者に投票することがあたりまえの慣習となっている。そのため外から来た候補者(実はぼくがお世話になった事務所の支える候補者もそういった人の一人)はなかなか勝つことが難しいとされている。
また、この選挙の風潮は、基地が動かない理由の一つでもある。 先に述べた土建屋は基地があることで儲かる商売だ。新基地の建設や整備を容認する首長や議員たちとつながりを持ち、選挙ともなれば社員総出で投票へ行き、特定の人物へ票を入れるという。そして票を得た首長や議員は、基地関係の補償金を公共事業につぎ込み、土建屋を潤している。互いに結びつくことで簡単には壊れない、利益誘導型の体質を作り上げてきたようだ。最近の名護市長選挙まで、基地反対派の市長候補者が勝てなかったのも、こういった背景が関係しているのかもしれない。
「古い構造との対決でもあるの」と女性が言うように、名護市議選でもし現市長支持派が過半数の議席を取れば、沖縄に生まれつつある新しいうねりはさらに大きくなるだろう。
翌朝、ぼくは事務所の支援する候補者の名前が入った旗を持ち、通り行く車に手を振りながら、名護の街頭に立っていた。一宿の礼といえここまで手伝わされることになるとは思わなかった。「ぼくはここで何をしているんだろう」と心の中でつぶやきつつ、通行人を眺めていた。すると、なんとなくではあるが、「民意」のようなものを、人々の表情や仕草から見て取ることができた。
たとえば、手を振ると振り返してくれる人、完璧に無視する人、目を合わせず会釈だけする人、声をかけてきてくれる人、様々な反応がある。その反応をひたすら注視し、全体の総和を分析してみると、民意の雰囲気というか、風当たりのようなものを感じ取ることができる。よく国政選挙の報道で「風が吹く」という表現が使われるが、その風は、人々の小さな反応の集合体のことではないか。一緒に街頭立ちをしていた人も、「始めた頃より反応してくれる人が増えた」と言っていた。市議選は、沖縄の未来に影響を与える。選挙は、それだけの意味を持っている。だからこそ一票に、しっかりとした考えや思いを込めるべきだと思う。名護市議選、見守りたい。
※9月12日に投開票された名護市議選の結果、稲嶺市長を支持する議員が過半数の議席を確保した。波は確実に大きくなりつつある。
OKINAWA×BASE 「辺野古・金武」
暖かい便座にウォシュレット。薄い青を基調とする壁に大きな鏡。奥行きがあり広々としている。辺野古公民館のトイレの様子だ。建物の外観にも驚いた。小学校の体育館を二つ並べたくらいの大きさで、屋根には橙色の瓦がふんだん葺かれ、立派な屋根つきのエントランスがどんと構えていた。
宮殿のような公民館にはおそらく、基地関係のお金が流れてきているのだろう。静かで寂れた辺野古の集落とは対照的に、自治体の財政の潤いが垣間見られた。
辺野古は昔、小さな漁村だった。人々は豊かな自然、海とともに暮らしていた。戦後、キャンプ・シュワブ(米海兵隊の基地)ができてから村の様子は変わり始めた。米兵を相手に商売をしようと多くの人が移り住み小さな街が出現した。通りにはスナックやファストフードの店が立ち並び、基地から遊びに来る米兵たちで賑わった。もともとの漁村と新しい街、辺野古にはこの二面性があった。
しかし、いまはそのどちらの特色もすっかり褪せていた。海兵隊の訓練海域となり、水陸両用者の演習が行われた海からは魚がほとんどいなくなってしまった、と、地元の住民は嘆く。車両のキャタピラによってサンゴ礁は踏み砕かれ、海の生きものの居場所やエサ場は失われてしまった。魚の獲れなくなった海に船を出しても、借金を作るだけだという。漁港には、使われていない漁船が退屈そうに並んでいた。
WASHINGTON、TEXAS、NEW YORK。アメリカの地名が描かれた看板はどれも色褪せていた。扉にはCLOSEDの掛札がだらしなく垂れ下がり、人気はない。つぶれたレストランだろうか。このような建物は街のあちらこちらににあった。おそらくもう、商売の街としての時代は終わったのだろう。
集落の脇を流れる辺野古川を歩いた。エメラルドグリーン。まさにこの言葉通りの色をした透き通る海が目の前に広がった。夏の太陽の陽射しに照らされ、波の穏やかな海面はきらきらと輝いていた。どこまでも歩いて行けそうな浅瀬にたたずみ、しばらくの間その楽園のような光景に目を奪われていた。時折、小魚が足元をすり抜けていった。
この美しい辺野古の海に目を向けながら座り込みをしている人々がいた。「座り込み」というと、闘争的な印象を受けるが、そこには気品のある方々が座り、和やかに語り合っていて、野暮な雰囲気などまるで感じられなかった。
少し意外だったのは、座り込みをしている人のなかに辺野古の住民が少なかったことだ。どうやら集落内には複雑な事情があるらしい。基地移設の受け入れに関して、個々の胸中には容認、反対といった思いや考えがある。しかし、それを表立って言うことはない。血縁関係や近所付き合いなどに亀裂を生みかねないからだ。コミュニティーの秩序を穏便に保つためにも、意見の分かれるこの問題に突っ込まないことは、公然の認識となっている。これが、座り込みのテントに集落の人が来ない理由の一つ(そのほか、体力的に毎日は来られないお年寄りが多い)だ。
ではテントに居るのはどういった人なのか。基地問題に関心、見識、自分なりの思いを持つ普通の人々だ。名護市民もいれば、嘉手納基地に隣接する沖縄市に住む人もいる。那覇から足を運ぶ人、さらには本土から定期的に来る人もいるという。
ぼくは初めてテントを訪れたとき、「なぜ当事者でもない人がこの問題に関わっているのか」という疑問を抱いた。が、その問いは、沖縄市から毎日座り込みに来ているという、優しくて上品なおばあの一言で消え去った。
「これは人間の問題よ。沖縄の問題じゃないの」。
「加害の島」という言葉がある。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガンでの空爆、イラク戦争、大戦後の度重なる戦争で、沖縄は米軍の最前線、または後援基地としての機能を持った。自分たちの島から爆撃に向かう爆撃機が飛び立っていく光景を見て、加害の意識を持ち、心を痛めた人も少なくなかったようだ。軍隊の本質は人を殺すこと。それを間接的に支えている(基地提供や軍需への労働力提供などで)ことで、自分たちは加害者側にいる、という気持ちになってしまうのだろう。
銃を突きつけられている人の絶望や、爆撃から必死に逃げる人の恐怖を、沖縄の人々は目の前の事実(飛び立つ爆撃機、戦闘機)から容易に想像できてしまう。
本土に住むぼくたちはどうか。イラクやアフガンで米軍が戦い、その結果多くの命が失われようと、それは新聞やテレビの中だけの出来事でしかない。もし、毎日のように東京の空を爆撃機が通過して行ったら、もし、装甲車や軍用車両が慌ただしく都心の道路を走っていたら、もし戦場行を直前にひかえた兵士が居酒屋で死への覚悟を語っていたら、少しは想像できるだろうか。ぼくたちの日常に、戦場の、戦争のリアルな断片は少しも存在していない。
たとえ、ぼくたちの税金が戦争を主導する軍隊を支えようと、ぼくたちの政府が日米同盟のもと、その戦争を支持しようと、加害の意識などほとんどないのではないか。あまりに無責任な無関心が、あたりまえに社会を包んでいる。
ぼくは、基地問題を沖縄の中だけのこととして済ませるべきではないと思う。地元住民だけが必死に抗議運動をしていればいいものではないと思う。負担の不平等、加害への無関心と想像力の欠如。こういった、本土に住むぼくたちの問題が沖縄を苦しめている。ならば、日本人誰もがこの問題に目を向け、首を突っ込み、意見を言い、議論を日本中に広げていいはずだ。「人間の問題」として、皆がしっかり基地や安保、国防へと向き合える空気を生み出すことが、まずは必要だと思う。
コザと辺野古を足して二で割ったような雰囲気のある町。それが金武だ。沖縄本島の東側、辺野古より少し南に位置するこの小さな町は、キャンプ・ハンセンに隣接している。街路にはやはり、米兵相手に商売をしていそうなバーやスナックが並び、通りを歩く外国人の姿も目立った。辺野古と比べると店や人の数が多く栄えている印象を受けたが、どこか、金武の未来と辺野古現在が重なるような気がした。もう少し時間が経てば、この町も辺野古のようになってしまうのだろうか、と。
西日が傾き、街は暑さに包まれていた。そんななかで歩き回るのも億劫だったので、冷たいぜんざいが食べられる喫茶店に入った。地元のおばあたちのたまり場となっていた店内には琉球語が飛び交っていた。カウンターに座り、水っぽくて味の薄いぜんざいを口に運びながら、この基地の町の景気について、店の奥さんから話を聞かせてもらった。
「基地の町」といえど、景気は悪いらしい。通りを歩く米兵の数は減り、店をたたむ人も多いという。なぜ基地の目の前にありながら米兵たちはあまり遊びに来なくなったのか。その直接の原因は、送迎バスだという。基地からは、毎日数本、名護やコザへ向かう送迎バスが出ている。勤務を終えた米兵たちは、そのバスに乗ってより大きな町へ遊びに行く。送迎が始まったころから、金武の通りを歩く人の数が減っていったという。
基地があるから町は潤う。沖縄を歩いていて、そういった事実を目にすることはなかった。「沖縄は基地なくしてやっていくことができない」、という論理には合理的な疑いを感じた。そうしたらよくなるのか、これを考えるとき、米軍基地はどういう位置づけになるのだろうか。
OKINAWA×BASE 「嘉手納・コザ」
空気を揺らすような轟音が全身を包んだ。「サンパウロの丘」と呼ばれる赤土の丘の上で、嘉手納基地から飛び立つF-15戦闘機を見た。エンジンを点火し、大きい音を響かせる。期待はほとんど滑走せず、その場からふわっと浮き上がったとように見えた。戦闘機の音や姿を、日々聞いて、見ている暮らしはどのようなものだろうか。想像するだけで重苦しさを感じた。
嘉手納町の町域の8割以上は軍用地になっている。もともとは北谷村の一部であったが、嘉手納基地によって分断され、行き来ができなくなったために分村し、いまの状態になっている。基地建設の際、住民の土地は奪われ、誰一人としてお参りに来ない墓が基地の敷地内にいまでも残っているという。
街に活気はなかった。シャッターの閉まった店が目立ち、人通りも少ない。空から聞こえてくる飛行機のエンジン音だけが耳に残った。
「軍用地料の弊害」について、沖縄の人から話を聞いたことがある。軍用地料とは、米軍基地に使用する土地の持ち主に支払われる賃借料のことだ。地料は自動的に入ってくるお金であり、それだけで食べていける人もいるという。働かなくてお金を得られる、とはどういうことか。軍用地料を受け取っている人はギャンブルやアルコール依存になりやすい傾向がある、という研究データが出ているらしい。お金をめぐって家族内で争いが起きることもある。軍用地収入のある人とない人との間には、基地の見方に温度差があるようだ。
このことについて教えてくれた人はさらに続ける。「軍用地料はもともとなくて当然のもの。なくなるとやっていけないのは、それに依存しているからだ」。たしかに本来、人は働いて自分の力で収入を得る。これは生きがいにもつながる。街もそうだ。基地で収入を得るよりも、住民たちの知恵や力で産業をつくり、地域主体で街づくりに取り組んだほうが活気も出てくるのではないか、と思った。
「沖縄は基地収入がないとやっていけない」というわけではなさそうだ。実際に沖縄に落ちるお金のうち基地収入は5%程度。それに、普天間、嘉手納をはじめどの基地の町も景気は悪いし、沖縄の平均時給は全国的にみてもかなり安い。この経済的な現状から基地の負の部分を十分理解できる。ふと、基地は経済的な麻薬のようなものに思えてきた。表面的な効果(立派なハコモノや道路の整備など)はたしかにあるが、副作用(騒音、人や地域の主体性の剥奪、家族やコミュニティーの分断など)も生じる。さらにそれは依存体質を作りやすく、「基地は動かない」という諦めを生むことにまでつながってくるのかもしれない。
丘の上でF-15戦闘機を眺めながら、そんなことを考えていた。沈んでゆく太陽は、足元の土をさらに赤く染めた。嘉手納町に宿が無かったため、基地を挟んで向こう側に見える街、コザ(現沖縄市)まで歩くことにした。
フェンス沿いの国道を時計回りに歩く。基地の中の様子がよく見えた。広い滑走路、その周りをジョギングしたり、ロードバイクで駆け抜けたりする米兵の姿、自家用車で街へ出かける人々、基地内の公園でバスケットボールをするちびたち、居住区の家の庭先でBBQを楽しむ家族。フェンスの向こう側はアメリカだった。彼ら、彼女らの普通の生活があった。異なる文化がすぐそばに息づいていた。もしこの鉄のフェンスがなかったら、沖縄はユニークな土地になるだろうな、と、そんな気がした。
コザは、そんなぼくの予感を体現したような街だった。通り沿いには英語の看板やネオンが輝き、バー、レストラン、ダーツの店が並び、外国人が歩きまわっている一方、泡盛の旗を掲げた居酒屋、三振や沖縄民謡のCDを売る店もあり、まさにMixed cultureな街だった。
その晩、夕食を食べに小さな食堂(ここのそばは地元で評判らしい)へ行った。店の前まで来て、ドアノブに手をかけて一瞬たじろいだ。ドアの向こうから超高音で熱唱される沖縄民謡が聞こえてきたからだ。腹をくくって中へ入る。そこには別世界が広がっていた。雰囲気は食堂というよりスナック。古びたL字のカウンターに色あせた木の壁。窓際には趣味の悪い花が並んでいた。
カウンターに座ると斜め前に座っていた(ぼくはL字の角に座った)おばあが何か話かけてきた、が、まるで聞き取れない。どうやら何を食べるの?と聞いているようだったので「そば」、とだけ答えた。琉球語。いまもまだこんなにもくせのある喋り方をする人がいるのか、と感心した。遅れて登場したママさんも、後から来たお客さんも、皆くせのある琉球語で話し、歌っていた。琉球の深部に潜り込んだような気分になった。
ここではもう一つ、沖縄の断片に触れた。基地に関することだ。
本音と建て前。沖縄の人の中には、基地問題に関してこの二つが存在する。と、たまたま隣に座ったおじいが話してくれた。誰もが人前では基地反対という。本気でそう思っている、部分もある。が、揺れている。基地で働く人、その家族や親類。本音では、容認とまで言わないが絶対反対だとも言えない。そういう人は少なくないという。
いろいろな立場、考え方、価値観がある。そういったものを、小声でなく大声で、堂々と語り、議論できる土壌が沖縄にはまだない、と感じた。
OKINAWA×BASE 「普天間」
嘉数の高台。ここからは普天間の住宅地、そしてそこに寝そべるようにして堂々と広がる米軍普天間基地が一望できる。天気は雨。眼下の町も、基地も、静かな雨に包まれ、物音一つ聞こえてこなかった。
嘉数の高台からは海岸も見通すことができる。その地理・地形的な条件から、太平洋戦争末期の沖縄戦では米軍の進行を妨げる堅固な砦として使われ、この高台を巡って激戦が繰り広げられたという。日露戦争でいう、二〇三高地のような場所だ。高台には多くの碑が立てられ、鎮魂の想いが刻まれていた。古びた堡塁跡もひっそりと残されていた。
沖縄には、こういった慰霊碑、堡塁跡、がま(天然の洞窟、戦争中、多くの人が身を隠していた場所。いわゆる集団強制死なども起きた)などが所々にあり、悲惨な地上戦の傷を今に残している。嘉数の高台もその内の一つ。そしてその場所から見える景色は、いまも沖縄を苦しめる基地問題という深い傷を、訪れた人々に投げかけている。その風景を目に焼き付け、旅を始めた。普天間基地の大きさを身で持って実感しよう。そう思い立ち周囲の道路を半周歩いてみることにした。雨はまだ止まない。傘を差し、とぼとぼと歩き始めた。高台のある、基地の南に位置する真栄原という町から反時計回りに歩き、基地の北にある普天間の町を目指した。
途中、基地に隣接する佐真下公園に立ち寄った。公園の目の前には基地を囲むフェンスがあった。中の様子は木で遮られ見られなかった。近くの東屋で地元のおじいが小さな宴を楽しんでいた。軽く会釈して通り過ぎようとすると、手招きされ「まあ座れ」、と一言。
沖縄初日の昼間から泡盛を飲まされることとなった。「みんな仲良く楽しく飲めばそれでいいさ」。誰とでも仲良く、という沖縄のめんそーれ精神に触れられた。
「沖縄にどんなイメージを持っている?」、と突然聞かれた。「温かくてのんびりと・・・」とあいまいに答えると、「現実は違うさ」とおじいは語気を強めた。のどかな島の風景は失われ、コンクリートの建物が窮屈に乱立する。どの街も景気は悪く、所得も低い。空にはいつも飛行機やヘリコプターの音が鳴り響く。「これが沖縄の現実さ」。切ない表情でこう教えてくれた。
本土のぼくたちが持つ沖縄のイメージは、どうも不都合な部分を捉えていないような気がする。基地の負担を強いている以上、その現実を理解することは、本土に暮らすぼくたちの責任ではないだろうか。
公園を後にし、基地沿いの国道を歩く。薄暗い雨雲の切れ目から、茜色をした夕暮れの空を覗けた。雨は弱まりつつあった。
国道はやけに騒がしかった。というのも、1週間後、ここ宜野湾市や名護市、沖縄市などの市議会議員選挙があるため、選挙カーが街を行き交い、鶯嬢の甲高い声が候補者の名前を連呼したからだ。ひたすら名前だけを繰り返すそのアナウンスに違和感を覚えた(後にぼくは沖縄の選挙に触れ、この理由を知ることになる)。車の中から笑顔で手を振られる度に、会釈を返しつつ歩を進めた。2004年8月、普天間基地に隣接する沖縄国際大学の敷地内に米軍ヘリコプターが墜落した。当時のニュース映像で見た、校舎の壁が真っ黒に変色した現場の様子は今でも印象に残っている。その事故の調査は米軍が取り仕切り、日本の警察は事故について何も調べることができなかった。日本には、日本人の介入できない場所がまだある。
沖縄国際大学の前を通りかかった。校舎は真新しく建て替えられ、事故の名残などまるで見られなかった。しかし、周辺には学生や住民が歩き、レストランや居酒屋が並び、国道から横道に入れば住宅街がある。基地と隣り合わせの日常は、確かに存在する。
翌日、基地の北側の普天間の街を見て、そこから残りの半周を歩き通した。住宅の塀から基地のフェンスまでの距離はわずか5mほど。狭い路地が入り組み、家々は肩をすぼめるように密集していた。大きな通りには弁当屋、小路にはスナックが並んでいた。
結局、普天間周辺でぼくの頭上を飛行機やヘリコプターが飛ぶことはなかった。静かな街だという印象さえ受けた。だが、どこか陰鬱な空気が漂っていた。不気味な静寂が、フェンスの向こうから伝わってきた。
OKINAWA×BASE 「基地問題と旅」
「これは人間の問題よ。沖縄の問題じゃないの」。
遠くを見るような目で辺野古の海を眺めながら、おばあは静かに語った。
「人間の問題」。ぼくはいまもその意味を問うている。
この夏の終わりに、沖縄へ行った。理由は一つ。在日米軍基地を見たかったからだ。政権が交代し、普天間基地の移転問題が一時期大きく報道で取り上げられていた。ぼくは新聞の報道、社説、論説、コラム、投稿欄で毎日のように扱われていたこの問題に触れる度に、関心を強めていった。あるとき、友人と沖縄の基地について話していると、ふとある考えが浮かんだ。この問題の本質は、「不平等」ではないかと。
世界の平和はバランスで成り立っているように思う。経済的な、そして軍事的なパワーバランスが、現実に存在する。核兵器、軍艦、戦闘機、ミサイル、兵士、それぞれの数や威力が他国の脅威になり、それらに対抗するため、また新たな軍備が整えられる。「お前が撃ったら撃ち返すぞ」、と言わんばかりに、心理的に互いを抑止し合っている(このために何百兆円ものお金が必要らしい)。
東アジアでは、たとえば北朝鮮がミサイルを日本に向けて配備しているとする。日本が気に食わなければすぐにでも発射できるが、いまのところ思いとどまっている。日本をいじめると、その親分の米国が黙っていないからだ。極端な例だが、これが抑止力でありバランスなのだ。
日米同盟、日米安保は、日本が世界のパワーバランスの中で生き残るためにも重要、と政府は考えているらしい。そして、国内に米軍を駐留させておくことで、安全保障を成り立たせている。
ここで沖縄に話が戻る。「国の安全保障」という、全ての日本国民が享受する利益がある。無論、タダではない。基地負担という代償を払わなければならない。そのうちの75%を払ってくれている(どちらかというと押し付けている)のが、沖縄なのだ。
と、いうようなことが、一連の報道をたどりわかってきた。同時に負い目のようなものを感じた。沖縄の人々の負担の上に、ぼくの日常がある。そう思うと、居ても立っても居られなくなった。この問題に無関心でいてはいけない、という思いが生まれた。
この思いと、那覇行の航空券と、多少のお金と着替えを背負って、ぼくは沖縄へと向かった。
2010年9月15日水曜日
上から下へ Ⅳ
4日目、最後の苦行が待ち受けていた。
ゆっくりと体を休め、遅めの朝9時に宿を発った。元箱根から箱根町までゆっくりと歩き、湯河原へと向かう峠越えの道路に入る前に休憩をとった。芦ノ湖畔にある小さなソフトクリーム屋さん。すだれのかかる日陰で休ませてもらった。涼しい風が通り抜けていた。道路の名は椿ライン。所々道沿いに椿が生えていた。峠までの上りは3日目の乙女峠ほどきつく感じなかった。峠にあったレストランで長めの休憩をとり下りへ臨んだ。
悪夢に出てきそうな延々と続く下り坂だった。やはり歩道はなく、遠くから聞こえてくる車の音に注意を払いながら進んだ。これまでの疲れがたまった体は、終わりの見えないこの道に嫌気がさしているようだった。何よりも精神的にバテそうになっていた。早く終わってほしいという思いだけが足を動かしていた。この椿ラインの下り坂では、4人それぞれが、ばらばらと歩を進めながら、自分自身と孤独に戦っていたのかもしれない。
湯河原に降り立ったとき、旅の終わりを感じた。海まで残り7キロほど。川に沿って歩道をゆっくりと歩いた。話をする余裕もあった。この旅はなんだったのかと考えていた。
この旅はなんだったのか。1日何十キロも歩き、足を痛め、苦行の果てに何かを得たのだろうか。これはぼくの中で1つの遊びだった。純粋な感覚・感情を求めた遊びだった。いつからか、腹の底から笑ったり、本心から遊びを楽しんだりすることができなくなっていた。理性や思考が、常に感覚や感情を抑えていた。現実の忙しさや、義務や、見栄によって、自分の本心と向き合うことを忘れさせられていた。いつも建前や合理的な考えだけで生活していた。
純粋な感覚・感情=リアル、だと思う。おいしいものをおいしい、眠いときは眠い、おもしろいことはおもしろいと、素直に自分の感覚や感情を100%受け入れる。そしてそれを楽しむ。それが今を深く生きる方法なのかもしれない。
この旅は、辛さのほうが大きかった。一方で、その辛さの向こうに純粋な感覚や感情は確かに存在した。疲れ果てた体で湯に浸かる瞬間、空腹のときに食べるご飯の味、暗闇から見えた明りの眩しさ、眠い体を布団に埋める心地よさ、常に仲間がいる安心感。
海で泳ぐことは好きではなかった。体はべとべとするし、髪はごわごわになる。クラゲに刺されることも。ではなぜ湯河原の海岸であんなにはしゃげたのだろう。もしかしたらこの旅で、何かを取り戻せたのかもしれない。
上から下へ Ⅲ
3日目、苦行は続いた。
眠い目をこすりながらキャンプ場を出発した。山中湖に反射する眩しい朝日を浴びながら、湖畔を歩き別荘地へと進んだ。静かな森の中の緩やかな登り坂を30分ばかり歩くとすぐに峠に出た。ここから国道を下っていった。太陽はどんどん空高く上がっていき、遮るもののない道を容赦なく照りつけた。暑さは、体力を奪っていった。言葉数も減り、黙々と歩く。
国道沿いの看板は宿や食事処までの距離を示していた。3キロ、10キロ、17キロ。どれも車にむけたメッセージだ。猛暑の中、車で移動できる道をわざわざ歩いて移動している者はどれくらいいるのだろう。世の中は、電車や車や飛行機のスピードに合わせて動いている。移動時間が短縮された分、忙しなく生きることが当り前になった。世の中のスピードと人間の生きるペースは、本当にかみ合っているのだろうか。歩くことが移動手段という前提で「じゃあ、8時間後、学校に集合ね」、なんて言う人は今の日本にはいないだろう。それくらいゆっくりとした時の流れの中で生きられたら、幸せなのかもしれない。
御殿場市街はさらに暑かった。
疲れた果ての昼食は、日の当たるアスファルトの上で食べたコンビニのパン。力がまるで出ない。市街を境に緩やかな下りは上りへと変わり、暑さで弱ったまま箱根の前に立ちはだかる乙女峠に臨んだ。数十センチ横を大型トラックやバイクがびゅんびゅんと走り去っていく。歩道のない国道を歩くことは、車にひいてくださいくださいと言っているようなものだった。時計の針は午後2時を回っていた。最も暑い時間帯に最もきつい上りの道を歩いていた。汗が背負ったザックにまで染みていく。誰もが黙々と歩いていた。喋る体力もなく、後ろから響いてくる車の音におびえながら、重い足を引きずりのろのろと歩いた。峠の茶屋が目に入った瞬間、陰鬱な心の影がすっと消えていった。
茶屋で一休みしてから峠のトンネルへと入っていった。ここにも歩道はなく命がけの歩行となった。ヘッドライトを後ろに向け、車が来る度に壁にへばりつきながら必死でライトを振って存在をアピールした。恐怖を感じつつも、トンネル内のスリルを心のどこかで楽しんでいた。
暗がりを抜けるといよいよ箱根。
国道から外れ、仙石原の高級別荘地に迷い込んだ。休暇を楽しんでいたマダムたちに芦ノ湖へ抜ける道を教えてもらい、ゴルフ場の真ん中を通るサイクリングロードを進んだ。誰もいない道。4人並んで歩ける道だ。自然の静けさに呑まれないように、誰もが陽気に振舞っていた。歩かなければ、進まなければ抜け出せない、孤独な環境に対抗しようと。
芦ノ湖へ出た。
すでに日は暮れていた。宿のある元箱根まで芦ノ湖を半周しなければならない。受け入れたくない現実だった。すぐにでも涼しい明るい部屋に柔らかい布団を敷いて寝ころびたかった。が、進まなければ抜け出せない。歩かなければこの現実を変えることはできない。そういう状況だった。黒い闇に包まれた県道に足を踏み出した。4人1列になり、後ろから来る車に気をつけつつ、突如現れるとも知れない獣に注意を払いながら進んだ。いつまでこの暗い道が続くかわからない恐怖、途中で足が止まってしまわないかという不安、宿のチェックインに間に合うかどうかという焦り。そういったものを払しょくしようと意味もわからぬ声を出し続けた。人間は、人間の作った環境の外では極端に弱くなる。街が恋しかった。
「虹の郷」は元箱根の山の中にあった。一生忘れられない宿だったかもしれない。
玄関に入るとスリッパが4つ並べてあった。客とはいえ、誰かが待っていてくれたということを知って、いままで歩き続けた孤独から解放されたような気持になった。出迎えてくれた奥さんに一通り宿の説明を受けて部屋へ入った。畳の広い部屋が2つ。冷房がきいていた。畳に横になって心から安堵した。今日を乗り切れたと。すぐに風呂に入った。湯から上がると、宿の主人が車で近くのコンビニまで送ってくれた。疲労と空腹の身に、その優しさが染みた。コンビニで大量の食糧を大人買いし、部屋に戻って食べた。同時に眠気が襲ってきた。空腹のときに食べられる。眠いとき横になれる。そんな単純なことが幸せに感じられた。
上から下へ Ⅱ
2日目、旅は苦行と化す。
眠気で朦朧とする意識。闇夜に浮かぶ無数のヘッドライトの明かりに付き従い、登山者で渋滞する道をゆっくり進み続けた。振り返ると、富士吉田や山中湖村の夜景が輝いていた。健脚ガイドの先導のおかげで日の出前に富士山のピーク、剣ヶ峰に到着。東の空は、真っ赤な炎に琥珀をかざしたような色の、力強い光を放っていた。
ここから、正式に旅が始まる。日本の最高点から海へ、垂直に進む道のりだ。剣ヶ峰を降りてすぐ影富士を目にした。信州の山々に堂々とかぶさったその姿は迫力に満ちていた。そこからの見晴は抜群で、遥か先の、愛知県渥美半島の先端まで望むことができた。列島を見渡せる山、富士山の魅力だ。
山頂から6合目までの下りで、足の疲労が一気にたまった。急な斜面、石のごろつく足下り坂だった。6合目を過ぎ樹林帯に入った。同時に、安心感に包まれた。周囲に歩行者が居なくなったことで、自分のペースで歩けるようになった解放感と、柔らかい土の上を歩ける心地よさとが、心に平穏を与えてくれた。
が、ここからが本当の試練だった。傾斜は緩くなったものの、歩けども歩けども終わりの見えない登山道が続いた。美しい森林を眺めながら歩く余裕もなく、がたがたする足でつまずかないよう足元に注意しながら歩き続けた。常に気を張って歩かなければならない登山道に疲れ果てていた。なにも気にせず、無意識のまま歩けるアスファルトの道路が恋しくなった。
1合目を過ぎ、ようやく舗装された道路に出た。4人横に並んで歩ける道だ。傾斜も緩く進みやすい。しかし、足の疲れはそんな道にさえ嫌悪感を抱くほど意識を支配していた。砂と汗にまみれべとつく体。歯垢に変化する一歩手前の食べカスが残る不快な口内環境。水道から出てくる無限の水ですべてを洗い流したい思いに駆られた。歩いて歩いて歩いて、歌って演じてまた歩いて、右手側にきれいな芝生の公園が現れた。そして園内にぽつんとたたずむ木の下に、水飲み場がひとつ見えた。まっすぐにそこへと駆け出し、水を浴び、飲み、芝生の上に大の字で寝ころんだ。肌をなでる風、木の葉の揺れる音が疲れた体に染み込んできた。公園から富士山頂が展望できた。ここまで降りて来られたことが信じられなかった。
少し歩くと浅間神社に着いた。立派な杉の並ぶ参道を通り鳥居を逆からくぐっていく。山頂から降りてきた自分たちが神聖なものに清められたような気分だった。この日の山は越えた。
富士吉田の街を食べ物求めてさまよった。どこの食堂も閉まっていたので国道を4キロほど山中湖方面に進んだところにある今日の宿泊地、山中湖オートキャンプ場を目指すことになった。途中立ち寄ったコンビニで牛乳を買い、一気に飲み干した。牛乳の養分をすぐに体が吸収してくれたような気がして、体が少し軽くなった。
キャンプ場の近くの温泉へ行った。湯に浸かりながら、夕暮れ時の青黒い空に浮かぶ富士山を見ることができた。湯から上がり、施設内にあった食堂で夕食を食べた。まともな食事は出発の日以来。白い米やみそ汁のおいしさを純粋に感じられた。エネルギー不足だったので口に入れたものは体がすぐに吸収した。食べたものが血肉に変わる、ということを実感できた。
上から下へ Ⅰ
富士山山頂から歩いて伊豆湯河原の海を目指す。そんなことをやってみた。
男4人、4日間歩き通した旅。ざっと行程を説明する。
1日目:朝8時、新宿駅に集合。高速バスを使って富士山5合目(吉田ルート)へ。登山開始。8合目途中の山小屋に宿泊。
2日目:深夜2時、山小屋を出発。5時過ぎの日の出を山頂で眺める。旅の始まり。徒歩で1合目まで下り、富士吉田の浅間神社前を通る国道に出る。国道沿いのキャンプ場に宿泊。
3日目:朝5時半、キャンプ場を出発。国道を歩く。山中湖畔、別荘地を抜け、篭坂峠を下る。自衛隊演習場を横目に御殿場市街地へと入っていく。乙女峠を越え、箱根仙石原へ。ゴルフ場の間を抜けるサイクリングロードを歩き芦ノ湖へ。湖を半周し、元箱根の宿に宿泊。
4日目:朝9時、宿を発ち箱根町から湯河原へと続く道路、椿ラインを歩き続ける。午後4時、湯河原温泉に到着。日の沈む頃、海へダイブ。
1日目、新宿駅に集合した頃が懐かしく感じられる。本当に歩けるのかという不安を抱きつつ、頭のどこかではこの旅を楽観していた。この日は富士山5合目から8合目までと、歩いた距離は4日間の中で最も短く、着くべくして着いた、と言える。苦になったのは眠気と他の登山者くらいなものだった。
眠気は前日からの睡眠不足に加え、富士山の無難な登山ルートを単調なリズムで進むことでさらに増加した。ふらふらしながら歩を進める自分の姿がなんとも情けなかった。富士山には登山者が多い。行列になってツアーで登ってくる人々をはじめ、若者、家族連れ、カップル、年配の方、とにかく人という人が登山道を埋め尽くしていた。登山をしているのに都会の駅の階段を上っているような感覚すら覚えた。下を向いて歩くには、辛い山だった。ただ、振り向けば雲海や八ヶ岳、アルプスといった景色が広がり、眺めに飽きることはなかった。就寝前、山小屋から見た空の色の鮮やかさが忘れられない。橙、紺碧、緑、空はたくさんの色があることを知った。
2010年8月11日水曜日
実習

3日間、山の中へ隔離されていた。実習のために。
林業に使われている機械の操作手順を教えてもらったり、作業道(林道の一種。小型の林業機械が通れる程度の砂利道。木材を運び出すために、日本の林業では欠かせないもの)の設計に必要な地形データを測量したりした。初日はと中日を通して地形の測量を実践した。方位磁石と望遠鏡を合体させたような”コンパス”と呼ばれる機械を用いて、作業道を通す予定の径路をいくつかの点で区切り、その区切りごとの点にコンパスを置き、傾斜や距離を測っていった。
ここで難しいと感じたのは、その「コンパスを定位置に置く」こと。急な斜面、狭い足場、ぬかるむ斜面。悪条件可でコンパスのついた三脚を立てることは困難だった。どの程度三脚を広げ、また狭めればコンパスを定位置に設置できるのか。この調整がなかなかうまくいかない。てこずるぼくを見かねた先生は、三脚を手に取ると数秒で設置した。
正確な数値が求められる測量ではあるが、そこには慣れや経験といった感覚的な技術が必要だということを知った。あたり前のことだが、傾斜やぬかるみ、足場の範囲を掴む感覚は、それなりの経験を積まないと磨いていけるものではない。専門性のある仕事は、マニュアルを見ても簡単にまねできないものばかりなのだろうな。
実習を経験したからといって、実際に機械を扱えるようになったわけでもないし、しっかりとした測量技術が身についたわけでもない。実習はあくまで体験であって、訓練ではない。体験では、技術を身につけることは後回し。実際の作業の難しさやうまくできないもどかしさなどから垣間見れた、リアルな作業の感覚を、学びの土台にすることが大切なのだ。
ぼくの足の裏に残った、斜面やぬかるみを踏んでいるときの感覚は、林業の本質を語る素材のひとつになったと思う。
目標
炎天下の神宮球場。高校野球の熱戦に、義弟の遺影とともに声援を送っていた男性を取材した。原稿が紙面に載った翌日、記事を読んだその男性からお礼の電話をいただいた。私の記事を読んで、何かを感じた人がいた。新聞記者という仕事の魅力に触れた経験だった。
自分が着目し、取材した事実を記事にして、読者に伝える。記者体験を通して、この過程がとても大切だということを実感した。
「社会には、埋もれている事実がまだまだある」。社会部記者の言葉が印象に残っている。社会に埋もれた問題や人の声に耳を傾け、掘り起こし、人々に伝えていけるような記者を目指したい。この7日間で、新聞記者になりたいという漠然とした思いは、明確な目標へと変わった。
2010年7月31日土曜日
安堵
やっと安堵感のようなものが感じられるようになった。
この5日間、「働く」とはどういうことかを考えていた。が、この問いは結局、「生きていく」とはどういうことか、ということを考えない限りは辿り着けない答えだった。
”だった”と言えるのは、ある程度考えた末、確信とまではいかないが自信を持てる答えを導きだせた
(少なくともいまぼくはこの答えで納得できている)からだ。
ぼくは自分の命や生活をまっとうできる生きかたができればいいと思っている。
いままでは「夢」や「使命」といった言葉に思考を縛りつけられていたのかもしれない。人間は(ぼくを含めた一部だけかもしれないが)生きることに目標や目的というある種の道しるべみたいなものがなければ、安心して前に進むことができないものだと思っていた。何か目指すものがなければ、漠然とした日々に埋もれて自分が何者なのかわからなくなってしまうものかとも思っていた。
実際、ぼくは大学生活という自由な時間、空間を手にしてから、自分のやるべきことが何かわからなくなっていた。自信をもって「ぼくはこれをやればいい」と言えるものがどれなのか選びとることができなかった。だから、「信念を持って一貫した何かに打ち込む」ような熱を帯びることがなかった。
新聞記者になりたいという気持ちはあったが、それは心の底から湧きあがってくるようなものではなく、ぼくの考え、理屈のうえでなるべきだと決めつけていた部分が多かれ少なかれあった。自分を未来へと引っ張ってくれる目標が欲しかった、故にそう決めつけたのかもしれない。
そうやって無理やりに自分を前へ前へと押し進めようとしていたから、押し進めたその先がわからなかったのだ。
いつか夢について誰かと話したとき、その誰かが「夢は状態だ」と言っていた。達成するものが目標であるなら夢はその先にある自分の状態やそれを取り巻く環境を指す、という意味だったのだろう。
その通りだと思う。
「夢」は叶えて終わる一過性のものではない。自分(もしくはそれ以外の対象)を取り巻く包括的な状態であり、そうありたいと願う生きかたそのもののはずだ。
たとえば、「新聞記者になりたい」というのは夢ではなく目標だ。大切なのは、新聞記者になってあなたはどう生きたいのか、という問いに答えることだ。
その問いに答えてみる。
新聞記者という仕事をこの5日間経験してみて、ぼくはこの仕事を続けてもいいと思った。これは少し前まで考えていたような「この仕事以外道はない!絶対にこれがいい!」と高らかに掲げられる気持ちとは質が異なる感情だ。
ぼくは高校野球のスタンド雑観を書いた。本当ならばそのスタンドで応援しているはずだった人の人生の一部を、ほんの少しだけの短い記事にした。それが紙面に載り、翌日、親族の方からお礼の電話をいただいた。
いい供養になった、と。
ぼくの書いた記事が、会ったこともない誰かに感謝された。
さまざまな人の戦争体験を、朗読で伝え続けている人がいる。その人の朗読会の紹介文を書いた。まだ紙面に載るかどうかわからないが、もしぼくの書いたその記事を読んだ誰かが、朗読会に足を運び、戦争の事実や悲惨さを知り平和について考えることができたら、
それは意味のある仕事だと思う。
新聞記者はそういう可能性をもった仕事だ。誰かに何かのきっかけを与えたり、誰かに何かしらの感情を与えたりすることのできる仕事だ。
そういう役割をもった一人の人間として、ぼくは生きていきたい。
あとは、自分にとって大切だと思える人やものに囲まれて生活できればいい。
愛する人、愉快で信頼できる仲間、走ること、食べること、眠ること、考えること、読書、音楽、映画、冒険、挑戦、競争、季節、自然、芸術、真っ白なノート、肌の温もり、古いアルバム、野心、真心、好奇心、茶、珈琲、ウイスキー、畳、エクステリアルウッド、ビーチサンダル、短パン、暖炉、こたつ、せんぷう機、蚊取り線香の匂い、風鈴の音、セミの鳴き声。なんでもいい。
生活をまっとうする。命をまっとうする。そういう生きかたは自分の意識の中だけでは完結できない。だから、自分を取り囲むもの、手が届き触れられるものを、尊重し大切にしていきたい。
「夢」や「使命」はもうちょっと先にとっておいていい。無理に探すものではなくて、外から与えられるものだと思うから。
とは言っても、結局やるべきことや目指すべきものはいままでと変わらない。
このまま進めばいいという安堵感だけ、ようやく手に入れられた。
だから、自分の選んだ未来へ、自信を持って歩いていけばいい。
いまはそれで十分だ。
2010年7月28日水曜日
神宮
第92回高校野球、西東京大会と東東京大会の取材のため、暑い夏の日差しが容赦なく照りつける神宮球場のスタンドを2日間歩き回った。
スタンド雑観、という神宮の応援スタンドの雰囲気を伝える記事を任された。
雑観に必要なものは、その情景を伝える切り口と物語だということに、必死で歩いた末気づいた。
甲子園出場まであと一勝、という試合を観戦者がどんな思いで、どんな視点で観ているのか。その裏のドラマを発見し伝える。言葉だけ聞くと単純だが、注意深く観察する力、話を引き出す力、その内容からドラマを紡ぎだしつつさらに足りない部分を聞き出す力、取材には粘り強さだけでなく器用に人の話を聞くことが大切だと感じた。そして、これをもっと詰めたら面白い話になりそうだ、と閃けるニュースセンスも求められる。
東東京大会決勝は修徳と関東一。ぼくは修徳側のスタンドを担当し修徳側の思いにたくさん触れたせいか、修徳をいつのまにか応援していた。
だからサヨナラ負けは悔しかった。泣き崩れる選手をみて心がいたんだ。野球に全力をかけていた青年たちがまぶしかった。こんなふうに取材対象へ同調することで書ける記事もあるのだろうと思う。
足を動かして、頭を使って、と記者はなかなか忙しい。
2010年7月13日火曜日
ねじれ

参院選。
再び国会は「ねじれ」た。
7月11日に参院選が行われ、政権・与党民主党は勝敗ラインに定めた54議席を大きく下回る44議席しか獲得できず大敗を喫した。
一方、最大野党自民党は51議席を獲得し改選第1党となった。注目を集めたのは11議席を獲得し躍進したみんなの党。
国会のキャスティングボートを握る存在となった。
参院での与党勢力は過半数を割りこみ、国会は衆院と参院で与野党勢力が逆転する「ねじれ」に。
この状態だけは避けたい。そんな思いで民主に一票を投じたものの、逆風にかき消されてしまったらしい。
昨夏の本格的な政権交代を経て民主党政権が誕生し10ヶ月。
自民の古い政治体質を壊し、新しい政治のうねりを生み出そうと意気揚々に発進した新政権への期待は大きかった。
鳩山政権は、どうも現実離れしているとしか言えないような政権公約を実行しようと躍起になり、
早急な審議や強行採決など手荒な国会運営が目立った。
菅首相に代わり急回復した支持率も、消費税論議を争点に持ち出してからというもの下がり続けてきた。
たしかに財政再建は重要だと思うが、他の問題はどこへ行ってしまったのか。普天間、無駄遣い、公務員制度改革、
「増税の前にやるべきことがある」というみんなの党の主張はまさに民意を捉えていた。
これだけ言うように、いくら民主がだらしないとしても、その尻を叩いてしばらくは働かせるべきだと思っていた。
時代にあった政治のできる政権を育てる、という見方もあっていい。「成果が見えないからすぐ変える」というのは
ほどほどにしておくべきではないか。
と、考えていたものの、蓋を開けてみればこういう見方は少数派だった。
とにかく「ねじれ」によって国会の機能が停滞するようなことはあってはならない。
ここからが大事。福田、麻生政権の二の舞になってはいけない。民主は、連立なり政策ごとの連携なりを他党に呼びかけ、
議論する国会になるよう努力してほしい。
意見の異なる者同士が議論し合い、本当に大切なことを見失うことなく、合意形成を目指す。
どこまでなら妥協できてどこからは譲れないのか、その線を死力を尽くして探りつつ意見をぶつけ合う。
頑固一徹に自分の主張を叫ぶだけではものごとは進まない。
法案査定がしっかりできるという「ねじれ」の良い面も発揮しつつ、確実な国会運営を望む。
2010年6月3日木曜日
理想

正直、辞めないでほしかった。
昨日午前、鳩山首相が退陣する意向を表明した。
革命的な政権交代からわずか8ヶ月、道半ばに終わった鳩山さん。悔やしいだろうな。
「まさかここまで民主党がだめになるとは思ってなかったよ」、「民主党、参院選どうなるんですかね」。こんな話をつい昨日の夜、
大学の先生と中華料理を食べながら話していた。鳩山さんは続投し、このまま批判を受けながらも参院選に突入するものとばかり思っていた。
普天間基地の移転をめぐる迷走や「政治とカネ」の説明不足、たしかに鳩山さんは批判されて当然といえるようなことばかりしてきた。
これらが民主党の支持率低下に影響していることも確かだろう。
だが、辞任が正しかったとは思えない。
安部、福田、麻生と過去3代の首相はそれぞれ1年足らずで政権のたらい回しをしてきた。政党の支持率が下がったから、選挙に影響するから、
責任をとるために、党首を変える。鳩山政権は自民党のそんな政治を覆すはずではなかったのか。
党首は、看板ではない。人気がなくなったからといって変えれば済むものでもない。首相1人に責任を押し付け、
自分の選挙を乗り切ろうとする参院改選組みの浅ましさにはあきれる。
鳩山さんへの批判は民主党への批判でもあることに気づいていないのだろうか。
『私はしばしば「宇宙人」と言われる』。昨朝の民主党両院議員総会でのあいさつで鳩山さんはこう言っていた。
「それは今の日本の姿でなく5年後10年後20年後の姿を申し上げているから・・・」と、
理想ばかりを語ってきた自分を皮肉りつつも弁解した。
ぼくは、鳩山さんの語る「理想」が嫌いでもなかった。
昨年10月の所信表明演説を聞いたとき、目指すものがある政治に少なからず期待し、心躍らせた。
国民一人ひとりが主役となる社会、「友愛社会」なるものを見てみようじゃないかという気持ちになっていた。
だからこそ、批判の嵐の中で歯を食いしばってでも政権を維持していってほしかった。
「理想」を描いておいて、何もせずに身を引いてしまったらそれこそ無責任だ。国民への裏切りに値する。
必死になって政権にしがみついていたほうがよっぽどかっこよかった。
周りをみれば現実を語る大人ばかりだ。それはそれでいい。ぼくらは今まさに現実を生きているのだから。
でも、何のために苦労して現実を生きているのか考えてほしい。
理想に近づくためだろ、と言いたくなる。
理想を語り、現実を直視し、一歩一歩その理想へと近づいていこうとするその姿勢が尊いのだと思う。
鳩山さんは理想は語ってくれた。が、現実を知る官僚をうまく使いこなせず、踏み出す一歩を欲張りすぎた。
一歩を踏み外し転んでしまった民主党は、起き上がれるのか。もう一度前を見据えられるのか。
迫る参院選、見守りたい。
2010年4月17日土曜日
矛盾

あえて人間を2グループに分けてみる。問題を生む側と、それを解決しようとする側。同じ人間なのに、一緒に暮らす仲なのに、効率が悪いとつくづく思う。
どこかでエネルギーを使えば、どこかでせっせと節約している。どこかで人権がおろそかにされれば、どこかで尊厳を求めて戦っている。どこかで食べ残しをすれば、どこかで飢えている。どこかで乱伐を繰り返せば、どこかでこつこつ木を植えている。どこかで誰かが一緒になれば、どこかで誰かが泣いている。
もっと知り合えないかな、お互いのこと。
代々木公園けやき広場。問題を解決しようとする側の人たちが集った、アースデイ。フェアトレード、民族問題、ダム問題、森林保全に食の安全。ぼくたちが向き合うべき問題がこんなにもたくさんあるのかと、考えただけで気疲れしてしまった。
もしかしたらさ、自分に一番身近な問題が何かってこと考えた方がいいのかもしれない。人間は矛盾だらけで生きているんだから、それを知ることからはじめるべきなのかな。問題を生む側も解決しようとする側もたぶん同一人物。
2010年4月16日金曜日
激震
中国青海省の、標高約4000メートルの玉樹チベット族自治州玉樹県で14日、マグニチュード7・1の大地震が起きた。新華社電によると、死者は、15日午前までに617人に達した。
ぼくが青海省で見た家々の壁はどれも、レンガを積み上げたり土で塗り固めただけの質素なつくりだった。自然の素材で作るから環境にもいいと胸を張ったガイドさんの言葉が、今では歯がゆく思い出される。いったいいくつの小さな営みが壊されたのだろう。毎朝欠かさず仏に祈りをささげ、パンを焼き、家族との団らんを楽しみ、畑で汗を流していた彼らの暮らしはいったいどうなってしまったのだろう。
ここからでは直接肌で感じることはできない。被災者たちの痛みを。だから記者さん伝えてください。その場所から、現場の声を。それを聞きぼくたちは、想像し、共感し、なにができるか考えます。
2010年4月8日木曜日
S君
S君は無事に長野へ到着しましたかな。さすがにもう着きましたね。今回君に会って、いままで以上に君という人間の奥深さを垣間見たように思います。これからもゆっくりと時間をかけて君を発掘調査していくので末長いお付き合いの程よろしくおねがいいたします。
もう学校ははじまりましたか?農大は12日から授業がはじまります。中国から帰ってきて学校がはじまるまでの、この今のブランクタイム中、ぼくはいろいろと考えております。とくに将来について考えます。新聞記者になりたいという目標があります。なぜなりたいのか、という理由と理想の生き方とをうまくリンクさせたいのです。
いまのぼくの考えでは、記者という仕事は人間と人間とをつなぐものだと思います。新聞を読むと、遠い国の戦争やクロマグロ、米軍基地、トヨタ、JAL、政府、国会スペースシャトル、あらゆる事象が切り取れます。それに少し想像力を働かせると、どんな事件や出来事にも人間の血が通っているように思えます。事実そうなのでしょう。
作家の宮部みゆきさんの「理由」という本の一節に、人は誰でも毎日忙しく自分の現実を生きている。その中で、ニュースを通して他人の現実を知る。自分のものとは違う現実を知れば、それについて考えたり、怒ったり、悲しんだり、笑いとばしたり、受け流したりできる。とにかく何かのきっかけにになる。メディアの役割はそういうものだ、と言っていました。
ぼくは最近、人間と人間との間にある壁を取り除きたいと思っています。意識的につくってしまう現実の壁です。偏見とかレッテルとか、そういう言葉に置き換えられるかもしれません。そういう壁は、相手に対する興味や関心を持つことで取り除いていけるのではと期待しています。興味や関心は、相手のことを少しだけでも知らないと生まれてくるものではないと思います。誰もが誰に対しても、国籍や人種、言葉、利害、その他色々を越えて興味や関心を持って接することのできる世界ってなかなか楽しいのではないでしょうか。
「一日一人以上の人と、その人と話したことのないところまで話す」という君の抱負がとてもいいなと思ったのは、出会いがあるからです。壁の先に出会いはあると思います。フリーハグもヒッチハイクも現実の壁を打ち破ってこそできるものだから、ぼくは君を尊敬するよ。
つまりは、誰もが持っている自分自身の現実を囲う壁を取り除くきっかけを、ぼくは他人の現実を知らせるという新聞記者の仕事でもってつくり出したいのです。
理想の生き方は、まず家族という自分と現実を共有できる大切な人と暮らすこと。そしてその家族を中心とした親せきや、友達や、地域の人とのつながりを楽しめる生活。いまはこうとしか言えません。仕事と生き方がどうリンクするかわからないけど、仕事は仕事、家庭は家庭というような割り切りはしたくないです。僕は壁のない現実を生きたいから。
君が来たとき、他方面からのぼくの友達を呼んだのも、実はそういう意図があってのことです。
と、最近はこんなことばかり考えていたわけです。一方的な主張になってしまってすまないね。新学期はどんな感じかね。さわやかな新しい年度の君の生活ぶりをリポートしてください。フレッシュフレッシュ。
なにはともあれ、また会いましょうね。楽しみにしておるよ。 では、お元気で!
2010年3月25日木曜日
中国×チベット あなたとわたし


1949年、中国人民解放軍がチベットに侵攻して以来チベット族は弾圧を受け続けてきた。そして、ラサ蜂起、ダライラマのインドへの亡命、亡命政府の樹立、その後もデモや動乱がチベット自治区内外でたびたび起きている。チベット族の人々が昔から願い続けることは変わらない。平和と幸せだ。
人それぞれ価値観が違うように、チベットにはチベットの、中国には中国の考え方や価値観があることを互いに理解しようと努めなければならない。チベットは中国から苦しい弾圧を受け続けながらも、中国との共存の道を探ろうと努力している。「独立」ではなく「中国主権下の高度な自治」への妥協もその表れだろう。次は、中国が歩み寄る番ではないのだろうか。互いの共存に向けて。
ぼくから見て、村で質素に暮らすチベット族の人々も、町の路地で暇をもてあましながら麻雀やトランプをする中国人も、心にゆとりのある生活をおくっているようだった。そして幸せそうだった。それでいいのでは、と思ってしまう。たとえチベット族がチベット族らしく、自分たちのことを自分たちで決められるようになったところで、路地で麻雀をしたり、川辺でゆっくりとお茶を飲んでいる中国人の幸せが失われるわけではないのだから。庶民の生活で、人それぞれのまっとうな生き方が保障され、ある程度未来が楽しみなものであるならば、国はそれを守ればいい。暮らしの平和や民族の誇りを傷つけてまで何を求めるというのか。
すべての人が共有できる普遍的な価値観は何かと問われれば、もっともそれに近いものは自由と平等だと答えるかもしれない。こういう前提があることを認めたうえで、互いの考え方や思想の違いを理解しようと努力すべきだと思う。すべての人が共有できる普遍的価値観や原則のようなものが無ければ、妥協することが難しくなるのだと思う。
「あなたもわたしも自由に生きている。そして平等に扱われている。だから、互いの意見がぶつかりあったとしてもそれを尊重しあいましょう。そして、どうしたらあなたもわたしも幸せに生きていけるのか考えましょう」と言えたらいい。
誰もが自由なのだから、誰もが平等なのだから、それが普遍的価値なのだから、矛盾するこの二つの価値のバランスを誰もが考えなければならない。
中国もチベットも答えを出してほしい。そのバランスの答えを。丁寧に根気強く話し合いながら。村でも、路地でも、人々が笑って暮らせるように。

