嘉数の高台。ここからは普天間の住宅地、そしてそこに寝そべるようにして堂々と広がる米軍普天間基地が一望できる。天気は雨。眼下の町も、基地も、静かな雨に包まれ、物音一つ聞こえてこなかった。
嘉数の高台からは海岸も見通すことができる。その地理・地形的な条件から、太平洋戦争末期の沖縄戦では米軍の進行を妨げる堅固な砦として使われ、この高台を巡って激戦が繰り広げられたという。日露戦争でいう、二〇三高地のような場所だ。高台には多くの碑が立てられ、鎮魂の想いが刻まれていた。古びた堡塁跡もひっそりと残されていた。
沖縄には、こういった慰霊碑、堡塁跡、がま(天然の洞窟、戦争中、多くの人が身を隠していた場所。いわゆる集団強制死なども起きた)などが所々にあり、悲惨な地上戦の傷を今に残している。嘉数の高台もその内の一つ。そしてその場所から見える景色は、いまも沖縄を苦しめる基地問題という深い傷を、訪れた人々に投げかけている。その風景を目に焼き付け、旅を始めた。普天間基地の大きさを身で持って実感しよう。そう思い立ち周囲の道路を半周歩いてみることにした。雨はまだ止まない。傘を差し、とぼとぼと歩き始めた。高台のある、基地の南に位置する真栄原という町から反時計回りに歩き、基地の北にある普天間の町を目指した。
途中、基地に隣接する佐真下公園に立ち寄った。公園の目の前には基地を囲むフェンスがあった。中の様子は木で遮られ見られなかった。近くの東屋で地元のおじいが小さな宴を楽しんでいた。軽く会釈して通り過ぎようとすると、手招きされ「まあ座れ」、と一言。
沖縄初日の昼間から泡盛を飲まされることとなった。「みんな仲良く楽しく飲めばそれでいいさ」。誰とでも仲良く、という沖縄のめんそーれ精神に触れられた。
「沖縄にどんなイメージを持っている?」、と突然聞かれた。「温かくてのんびりと・・・」とあいまいに答えると、「現実は違うさ」とおじいは語気を強めた。のどかな島の風景は失われ、コンクリートの建物が窮屈に乱立する。どの街も景気は悪く、所得も低い。空にはいつも飛行機やヘリコプターの音が鳴り響く。「これが沖縄の現実さ」。切ない表情でこう教えてくれた。
本土のぼくたちが持つ沖縄のイメージは、どうも不都合な部分を捉えていないような気がする。基地の負担を強いている以上、その現実を理解することは、本土に暮らすぼくたちの責任ではないだろうか。
公園を後にし、基地沿いの国道を歩く。薄暗い雨雲の切れ目から、茜色をした夕暮れの空を覗けた。雨は弱まりつつあった。
国道はやけに騒がしかった。というのも、1週間後、ここ宜野湾市や名護市、沖縄市などの市議会議員選挙があるため、選挙カーが街を行き交い、鶯嬢の甲高い声が候補者の名前を連呼したからだ。ひたすら名前だけを繰り返すそのアナウンスに違和感を覚えた(後にぼくは沖縄の選挙に触れ、この理由を知ることになる)。車の中から笑顔で手を振られる度に、会釈を返しつつ歩を進めた。2004年8月、普天間基地に隣接する沖縄国際大学の敷地内に米軍ヘリコプターが墜落した。当時のニュース映像で見た、校舎の壁が真っ黒に変色した現場の様子は今でも印象に残っている。その事故の調査は米軍が取り仕切り、日本の警察は事故について何も調べることができなかった。日本には、日本人の介入できない場所がまだある。
沖縄国際大学の前を通りかかった。校舎は真新しく建て替えられ、事故の名残などまるで見られなかった。しかし、周辺には学生や住民が歩き、レストランや居酒屋が並び、国道から横道に入れば住宅街がある。基地と隣り合わせの日常は、確かに存在する。
翌日、基地の北側の普天間の街を見て、そこから残りの半周を歩き通した。住宅の塀から基地のフェンスまでの距離はわずか5mほど。狭い路地が入り組み、家々は肩をすぼめるように密集していた。大きな通りには弁当屋、小路にはスナックが並んでいた。
結局、普天間周辺でぼくの頭上を飛行機やヘリコプターが飛ぶことはなかった。静かな街だという印象さえ受けた。だが、どこか陰鬱な空気が漂っていた。不気味な静寂が、フェンスの向こうから伝わってきた。
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