2011年4月18日月曜日
「安心」の土台
知人があきれたように話していた。
「雨に日に傘をさしてスポーツジムに行ったらね、ジムから数十メートルしか離れていない所に住む友達がわざわざ車で来てたんだよ。足でも痛めたのかって聞くと何て答えたと思う?放射能が恐いから念のためにね、と言ってたよ」
東日本大震災で事故を起こした福島第1原発から200㎞以上も離れた東京での話だ。知人があきれるのもわかる。新聞やテレビで毎日のように「シーベルト」や「ベクレル」という単位が解説され、その数値の変化によって人体にどのような影響がおよぶのか示されている。文科省は地域ごとの、大気中や降雨などに含まれる放射線量や放射能の強さを公表している。これらを参考にすれば、東京で放射性物質による健康被害を受けることは考えにくい。
放射能に関する最低限の知識や情報が得られる状況下で、あそこまで過剰に恐がる人がいることに驚いた。
「原子力に対する地元住民の理解は、他地域と比べて深いと思います」
青森県六ケ所村にある核燃料サイクル施設を見学したとき、運営会社の日本原燃の社員がそう話してくれた。施設建設時こそ反対意見が多かったものの、その後、原燃は積極的に事業内容や原子力について住民に説明を続けた。いまではほとんどの住民が理解をしてくれているようだ。
「不安はあるけど、政府や原燃を信用するしかないよ」
4日間の滞在期間中お世話になった宿の主人は、施設が近くにあることに不安はないのかとたずねた私に語った。不安でも、あるものはなくせない。ならばしっかりと安全に運営してもらうしかない。六ヶ所村住民の毅然とした態度と、原子力から遠く離れた東京の人の過剰に怯える姿との差異がずいぶんと大きく感じられた。
なぜ原発から遠い地域の人ほど放射能を恐がるのか。おそらく、「安心」は「信用」の上に成り立つものだからだろう。六ヶ所村の住民は誠実に説明をくりかえす日本原燃をある程度信用していた。しかし東京に住む私たちはどうか。情報源の行政やマスメディアを心から信用できるだろうか。
近所のスポーツジムに車で来る人のような、情報の受け手だけの問題ではない。「大丈夫、落ち着いて」と、人に安心を与えられるように、情報提供者は日ごろから市民に寄り添わなければならない。
2011年4月5日火曜日
揺れ
3月11日午後2時46分。キーボードを叩きながら見つめていたパソコンの画面がゆったりと揺れはじめた。地震かな、と思いつつも手をまだ動かしていた。その日のうちに完成させなければならない書類を作っていたため、多少の揺れにかまっていられなかった。窓のブラインドが音をたてて波打っていた。ドンッ、とパソコンが大きくずれたと思うと、すぐ隣から悲鳴が聞こえてきた。周りを見回すが、パソコン室の中にいたはずの多くの学生がいなくなっている。よく見ると、皆机の下に隠れていた。あわてて机の下にもぐり込んだ。首を曲げたまま、隣の人と目が合った。その人の不安そうな表情を見て、自分が大変な事態に直面していることをようやく認識できた。
揺れがおさまり外へ出ると校舎の中にいた学生や教職員が大勢立っていて、上を見上げていた。地震があったんだ、それもかなり大きな、と頭の中の思考が働きはじめた。「校内にいる生徒、教職員の皆さんは運動場に集まってください」。校内放送が聞こえてきた。ぞろぞろと人の流れに合わせて運動場へ行った。携帯電話を取り出してワンセグ放送を観た。三陸沖で震度7。アナウンサーが興奮した様子でくり返し「大きな地震がありました」と声を荒げていた。
ふと、書類のことを考えた。企業へ提出する入社志望書。今日中に書かないと間に合わない。パソコン室に戻って作業を続けよう。頭の中でそう考えたが、体が動かない。これからどうなるのか。皆無事なのだろうか。胸の奥からふつふつと不安で重い感情が湧いてきた。初めて体験した大きな揺れは、今までの時間の流れを変えてしまったようだった。
ほんの数時間前まで、なぜ働きたいのか、どんな人生をおくりたいのか、自分はどんな人間なのか、入社志望書に書くべき言葉を探していた。当たり前のように、今日書類を完成させ、郵送し、試験を受け、緊張しながら面接に臨んでいる、そんな近い未来が来るのだと思っていた。自分の想像できる範囲で時は流れ、その時々で苦労しながら前に進んでいく。人生を、ある程度想定通りに歩んでいくのだと思っていた。
だが、変わってしまった。あの揺れの前と後とは、まるで別世界になってしまった。地震や津波、原発事故は多くの人の現実を変えてしまった。社会を取りまく状況が変わった今、自分の生き方をもう一度考えたいと思う。
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