2014年9月28日日曜日
出発前夜
2012年8月17日金曜日
現場
実地研修を経て、現場の難しさ、っていうものを感じるようになった。
小学生に仕入から販売までの一連の商売を体験させる、企業体験の事業を1ヶ月間手伝った。実際の販売は街の夏祭りが行われる1日のみ。子どもたちは何を買うか、どう売るかを考え、支給される現金5万円を資本に商売を体験した。
子どもたちが企業体験をし、商売について興味を持つことで、将来の起業家を生むきっかけになるかもしれない。意欲的な経営者が増えれば日本の経済の下地は強くなる、という考えも組み込まれている。それにこれは、扱う商品を特産のものに絞ったり、商店街内で仕入させることで地域のPRや活性化につながることもあり、にやり方次第では出口の示されている事業だ。
だが、現場はこの事業の理念や考え、可能性に追いついていない。事業を担当する職員は一人のみで、当人は他にも多くの業務を抱えている。1学級分の子どもたちの目を配るだけで手一杯となり、事業をブラシュアップするためのアイディアを思いつく余裕はない。事業を消化するためだけに事業を担っている。
学校の教員や定年退職後の人に協力を頼むなど、解決手段がないわけではない。地域の経済循環とこの事業を結びつける仕掛けだって考える余地は残されている。だがそれには職員の熱意や行動力が必要だし、周りの理解も欠かせない。
事業の考案者、つまり政策策定の当事者はどれだけ想像力を働かせているのだろうか。
現場感覚との解離、理念の独り歩き、細部への想像力の欠如。結局はそういうところに行き着く。
今回の事業についての不満ではない。知識や理論だけに基づいた政策の不完全さは自治体に留まらない。むしろ現場から離れたところにいけばいくほどに、実効性とのミスマッチは生じやすくなる。
現場に政策を取り戻さないと。ある程度は。
2012年4月6日金曜日
現場との距離
いまは現場と距離のあるところにいるからこそ、想像する。ぼくが周知した融資制度や、報告した統計がどういうかたちで現場に行き着くのか、どのような政策に反映されるのか、それは意味があることなのかそうでないのか。想像し、考えなければ、作業にのみこまれて、疲れた人間になってしまいそうだから。
これから2、3年は現場と政策を結ぶパイプにしかなれないかもしれない。事務は、そういう位置だから。でも、それでいい。この位置から見えるものを全て見て、もっと多角的な視点と、感性と、考えを養ってから現場に立つ。
2012年3月30日金曜日
不安
あー。これが当たり前になっていくのかなー。むしろ学生でいたころの方が特別なものになっていくのかなー。
そんな気がするよ。
社会人であることが当たり前で、収入とか人生設計とか、ある程度先を見通した生活とか、そういうものが普通な生き方になるのかなー。
そう思うと、なんかおもしろくない。
「創造性」や「挑戦」に向き合っていけるような生きざまを求めようよ。
仕事への不満ではない。
生き方への不安だ。
社会人3日前。
2012年3月21日水曜日
2012年3月20日の日記
こういう気持ちを、うまく言葉で表せない。慣れ親しんだ環境や、そのなかにいた自分自身や、大切な人たちから離れなければならないのはとてもさびしくて悲しくていやなことだ。でも。そういう感情を終始抱えていたのに、今日はとても幸せな1日だった。
どちらかといえば苦労や大変なことのほうが多かった学生生活をなんとか乗り越えられた達成感か、卒業論文を書き上げることができた充実感か、日常では特別意識していなかったけどぼくには好きだと思える場所や人がたくさんいたことに気づけた安心感のようなものなのかはわからない。たぶんすべてのこういう思いが合わさっているから、今日は幸せだと感じたのかもしれない。
実感がわかないなんてことはまるでない。引越しの準備が進んでいること、プロジェクトなどでお世話になった村の人たちから「ごくろうさま」「がんばってきて」、と見送られたこと、卒論で賞を貰えたこと、先生や在校生に送り出してもらえたこと、一緒に卒業しそれぞれの道へ進もうとする仲間としっかり別れのあいさつができたこと。こういう過程がここ数日に凝縮されていたから、ぼくはもう次へと踏み出す足に力を込めることができると思う。長かった学生生活を簡単に総括することはできないけど、社会に出て、いろいろな壁に直面しても振り返ることで力に変えることのできそうな経験や思い出はたくさんあるから、過去の自分や自分たちを思い出して前に進むきっかけをつかむこともできる気がする。
高いお金を払ってもらい4年間という時間を得た。そのつもりで頑張ってきたけど、大学で得たのは時間だけじゃない。なにかあれば(なにもなくても)立ち寄っていくことのできる母艦を得たこと、社会を捉える視点を示してくれた知識や先生に出合えたこと、立場や利害に関係なく底辺でしっかりとつながっていられる仲間ができたことは、ぼくの財産だしもっというならぼくの構成要素の一部でもあると思う。いまのぼくと、これからのぼくをつくってきたものでありつくっていってくれるものであると思う。
大変だったけど、大学いって本当によかった。
2012年2月18日土曜日
西へ
明確な目的とか、見たいものとか知りたいものがあったわけじゃない。計画も準備もほとんど何もできないまま、ただ、「空けておいた期間」が来てしまっただけだ。1週間。卒論もバイトも引越し準備も置いて無理矢理つくった時間なのに、その時間を満たすであろうものがまるでわからない。何をしたいか、何を見たいか、どうなるのかわからない。浮き足だった旅。だからとりあえず西へ向かう。
とりあえず西へ。くじらの町へ。
2012年2月3日金曜日
再・遠野まごころネット〜これからのために〜
今日は大槌町へ行った。箱崎よりも居住地が広く平坦な地形なため、建物の基礎だけ残した町の風景はさらに開けていた。
木片やビニールなどと絡まり岸に打ち上げられていた網を、違う用途に再利用するため、解きほどいていった。津波で流され、廃材となったものだけでバスケットボールのゴールを作るために使う。様々な街づくり構想のなかの一つらしい。絡まった網をほどき、適度な大きさに切り分けて、並べる。全てほどいたところで午前中の作業が終わった。
防波堤のそばを歩いて休憩所へ向かった。4〜5mほどの防波堤は崩れることのない壁に見えたが、所々、傾いていたり、崩れていたり、流されてしまい応急の土嚢が詰まれたりしていた。「防波堤があるから大丈夫」、と避難への思考を止めてしまった壁は、多くの犠牲者を出した一因だったという。ハード対策は、想定を超える事態に、想定を超えて対応できないことを、傾いている動かないはずだった壁が示していた。
大槌町の内陸にある「復興商店街」で昼食をとった。50mほどに並んだ2階建てのプレハブに、食堂や居酒屋、弁当屋やレンタルビデオ点、塾やソーラーパネルの販売店など様々な店が軒を連ねていた。街の商店の再生の足掛かりとなる、そんな場所だ。たくさんの意欲的な経営者が、様々な事業を、それぞれの町や地区で展開していくことで、そしてそこでお金の循環が生まれることで、人々の生活や町の風景の再生をリードしていく。沿岸部でこのような仮説商店街や横丁の設置の動きは活発化している。
家の基礎がきれいに見えるだけ、津波で流されてきた泥から家財道具までのさまざまなものの撤去は進んだといえる。ただ、大槌町で言えばまだ港湾近くの道端には行き場を失った流木や網やブイや缶詰めなどが放置されている。午後はそれらを少しずつ軽トラックに乗せて運び出した。大型機会の入れない細かな箇所は、まだまだボランティアによる片付けが必要とされている。雪かきなどもわざわざ税金を投入してまでやっていられない。災後11ヶ月を迎えようとしている今でも、人手は必要なのだ。
「たくさんの人がボランティアとして現地に入り、活動してくれることで、地元の人は勇気づけられ、復興は加速していく」、と、遠野の小さなバーのマスターは言っていた。そうだと思う。まだまだ終わっていない。まだまだこれからだ。復興の現場に立つことでそれを感じることができる。
梅雨明け7月の、36℃を超える容赦ない猛暑のなか、汗も筋肉痛も無視して泥や砂利を水路からすくい出していた経験が、いまもぼくの意識を箱崎町へと引き寄せ続けている。「いま、どうなっているだろうか」と、気になっていることが、たとえ少しの間しか居られないとしても、一目だけでも現状を見に行こうという行動につながっている。
大学が春休み期間に入りボランティアの数は多少増る傾向にある。が、多ければ多いほど良い。現場では、1人の存在の有無が作業の進行速度に関わってくる。
もうほとんど片付いてきているからとか、どうしたらいいかわからないからとか、忙しいからとか、自分のことで精一杯だからとか、足を運ばない理由はいくらでもあると思う。
でも、依然として人手は必要だし、インターネットで10分集中して調べれば行き方や参加の仕方は簡単に調べられるし、忙しさや自分の事情は結局は自分の考え方次第だ。
「困っている人のために」、という名目は確かに大事だと思う。けど、それだけじゃない。そういう文句だけでは災後に参加することの意味を捉えられない。
復興の過程をこれからの未来をつくっていく人々が共有していくこと、が必要なんだと思う。
