2010年10月9日土曜日

OKINAWA×BASE 「辺野古・金武」










 暖かい便座にウォシュレット。薄い青を基調とする壁に大きな鏡。奥行きがあり広々としている。辺野古公民館のトイレの様子だ。建物の外観にも驚いた。小学校の体育館を二つ並べたくらいの大きさで、屋根には橙色の瓦がふんだん葺かれ、立派な屋根つきのエントランスがどんと構えていた。


 宮殿のような公民館にはおそらく、基地関係のお金が流れてきているのだろう。静かで寂れた辺野古の集落とは対照的に、自治体の財政の潤いが垣間見られた。


 辺野古は昔、小さな漁村だった。人々は豊かな自然、海とともに暮らしていた。戦後、キャンプ・シュワブ(米海兵隊の基地)ができてから村の様子は変わり始めた。米兵を相手に商売をしようと多くの人が移り住み小さな街が出現した。通りにはスナックやファストフードの店が立ち並び、基地から遊びに来る米兵たちで賑わった。もともとの漁村と新しい街、辺野古にはこの二面性があった。


 しかし、いまはそのどちらの特色もすっかり褪せていた。海兵隊の訓練海域となり、水陸両用者の演習が行われた海からは魚がほとんどいなくなってしまった、と、地元の住民は嘆く。車両のキャタピラによってサンゴ礁は踏み砕かれ、海の生きものの居場所やエサ場は失われてしまった。魚の獲れなくなった海に船を出しても、借金を作るだけだという。漁港には、使われていない漁船が退屈そうに並んでいた。


 WASHINGTON、TEXAS、NEW YORK。アメリカの地名が描かれた看板はどれも色褪せていた。扉にはCLOSEDの掛札がだらしなく垂れ下がり、人気はない。つぶれたレストランだろうか。このような建物は街のあちらこちらににあった。おそらくもう、商売の街としての時代は終わったのだろう。


 集落の脇を流れる辺野古川を歩いた。エメラルドグリーン。まさにこの言葉通りの色をした透き通る海が目の前に広がった。夏の太陽の陽射しに照らされ、波の穏やかな海面はきらきらと輝いていた。どこまでも歩いて行けそうな浅瀬にたたずみ、しばらくの間その楽園のような光景に目を奪われていた。時折、小魚が足元をすり抜けていった。


 この美しい辺野古の海に目を向けながら座り込みをしている人々がいた。「座り込み」というと、闘争的な印象を受けるが、そこには気品のある方々が座り、和やかに語り合っていて、野暮な雰囲気などまるで感じられなかった。


 少し意外だったのは、座り込みをしている人のなかに辺野古の住民が少なかったことだ。どうやら集落内には複雑な事情があるらしい。基地移設の受け入れに関して、個々の胸中には容認、反対といった思いや考えがある。しかし、それを表立って言うことはない。血縁関係や近所付き合いなどに亀裂を生みかねないからだ。コミュニティーの秩序を穏便に保つためにも、意見の分かれるこの問題に突っ込まないことは、公然の認識となっている。これが、座り込みのテントに集落の人が来ない理由の一つ(そのほか、体力的に毎日は来られないお年寄りが多い)だ。


 ではテントに居るのはどういった人なのか。基地問題に関心、見識、自分なりの思いを持つ普通の人々だ。名護市民もいれば、嘉手納基地に隣接する沖縄市に住む人もいる。那覇から足を運ぶ人、さらには本土から定期的に来る人もいるという。


 ぼくは初めてテントを訪れたとき、「なぜ当事者でもない人がこの問題に関わっているのか」という疑問を抱いた。が、その問いは、沖縄市から毎日座り込みに来ているという、優しくて上品なおばあの一言で消え去った。


 「これは人間の問題よ。沖縄の問題じゃないの」。


 「加害の島」という言葉がある。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガンでの空爆、イラク戦争、大戦後の度重なる戦争で、沖縄は米軍の最前線、または後援基地としての機能を持った。自分たちの島から爆撃に向かう爆撃機が飛び立っていく光景を見て、加害の意識を持ち、心を痛めた人も少なくなかったようだ。軍隊の本質は人を殺すこと。それを間接的に支えている(基地提供や軍需への労働力提供などで)ことで、自分たちは加害者側にいる、という気持ちになってしまうのだろう。


 銃を突きつけられている人の絶望や、爆撃から必死に逃げる人の恐怖を、沖縄の人々は目の前の事実(飛び立つ爆撃機、戦闘機)から容易に想像できてしまう。


 本土に住むぼくたちはどうか。イラクやアフガンで米軍が戦い、その結果多くの命が失われようと、それは新聞やテレビの中だけの出来事でしかない。もし、毎日のように東京の空を爆撃機が通過して行ったら、もし、装甲車や軍用車両が慌ただしく都心の道路を走っていたら、もし戦場行を直前にひかえた兵士が居酒屋で死への覚悟を語っていたら、少しは想像できるだろうか。ぼくたちの日常に、戦場の、戦争のリアルな断片は少しも存在していない。


 たとえ、ぼくたちの税金が戦争を主導する軍隊を支えようと、ぼくたちの政府が日米同盟のもと、その戦争を支持しようと、加害の意識などほとんどないのではないか。あまりに無責任な無関心が、あたりまえに社会を包んでいる。


 ぼくは、基地問題を沖縄の中だけのこととして済ませるべきではないと思う。地元住民だけが必死に抗議運動をしていればいいものではないと思う。負担の不平等、加害への無関心と想像力の欠如。こういった、本土に住むぼくたちの問題が沖縄を苦しめている。ならば、日本人誰もがこの問題に目を向け、首を突っ込み、意見を言い、議論を日本中に広げていいはずだ。「人間の問題」として、皆がしっかり基地や安保、国防へと向き合える空気を生み出すことが、まずは必要だと思う。


 コザと辺野古を足して二で割ったような雰囲気のある町。それが金武だ。沖縄本島の東側、辺野古より少し南に位置するこの小さな町は、キャンプ・ハンセンに隣接している。街路にはやはり、米兵相手に商売をしていそうなバーやスナックが並び、通りを歩く外国人の姿も目立った。辺野古と比べると店や人の数が多く栄えている印象を受けたが、どこか、金武の未来と辺野古現在が重なるような気がした。もう少し時間が経てば、この町も辺野古のようになってしまうのだろうか、と。


 西日が傾き、街は暑さに包まれていた。そんななかで歩き回るのも億劫だったので、冷たいぜんざいが食べられる喫茶店に入った。地元のおばあたちのたまり場となっていた店内には琉球語が飛び交っていた。カウンターに座り、水っぽくて味の薄いぜんざいを口に運びながら、この基地の町の景気について、店の奥さんから話を聞かせてもらった。


 「基地の町」といえど、景気は悪いらしい。通りを歩く米兵の数は減り、店をたたむ人も多いという。なぜ基地の目の前にありながら米兵たちはあまり遊びに来なくなったのか。その直接の原因は、送迎バスだという。基地からは、毎日数本、名護やコザへ向かう送迎バスが出ている。勤務を終えた米兵たちは、そのバスに乗ってより大きな町へ遊びに行く。送迎が始まったころから、金武の通りを歩く人の数が減っていったという。


 基地があるから町は潤う。沖縄を歩いていて、そういった事実を目にすることはなかった。「沖縄は基地なくしてやっていくことができない」、という論理には合理的な疑いを感じた。そうしたらよくなるのか、これを考えるとき、米軍基地はどういう位置づけになるのだろうか。

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