2011年7月31日日曜日

なりゆきを決然と…。+伊江島

「なりゆきを決然と生きる」。すこし前に菅伸子さんが新聞のインタビューのなかで言っていた言葉を、伊江島に来て思い出した。


深夜0時過ぎ、羽田空港の出発ロビーや搭乗ゲートをぼんやりとした意識で歩く。この眠気にこの風景。先週とまったく同じだ。別の会社の入社試験で再び沖縄へ向かっていた。


今度は閉め出される前に自ら那覇空港の到着ロビーを出て、バス停の前のベンチで眠ることにした。未明のぬるくて湿った空気も、知らず知らずに蚊に刺されて増えていくかゆみスポットの数もも、背中を痛めるベンチの硬さも、先週と同じに感じた。沖縄にきた新鮮味はほとんどない。


海沿いの豪華なホテルの大広間で行われた試験ではうとうとしながらも回答用紙を埋めることができた。冷たい水や麦茶のサービスや長めの休憩時間、丁寧な説明など、先週受験した同業他社の会社よりぼくたちに対する気配りが細かかった。こういうちょっとしたところに、会社のカラーはにじみ出てくる。


試験を終え、那覇バスターミナルから名護東線に乗った。これが失敗だった。バスは客を乗せては、下ろしては、赤信号につかまっては、渋滞に巻き込まれては止まった。運転手がブレーキを踏むたびに、焦る気持ちが募っていった。せっかく来たのだからせめて飛行機代の元を取りたいと思い、去年の「OKINAWAx BASE」のときに行けなかった伊江島へ行くことにしていた。名護の北西にある本部港から伊江島へ向かうフェリーの最終便は17時30分で、それに間に合うかどうかぎりぎりの時間だったのだ。


名護バスターミナルに着いたときには、フェリーの最終便に接続できるバスはすでになくなっていた。宿はすでに予約してしまっていたし行くしかない!とあまり深く考えずにタクシーに乗り込み、本部港まで急いでほしいと運転手さんに告げた。かなりスピードを出したくれたのはありがたかった。 が、スピードが早まるだけ料金メーターの回転速度もましっていった。 10秒ごとに80円くらいあがり続け、出費は口に出したくないほど増えた。


予想外の出費に落ち込みつつ伊江島に上陸した。あまり外を見て回る時間もなかったのでゲストハウスに留まり、ほかの宿泊者の人と話していた。彼はケンさんという。


ケンさんはダイエットをしようと自転車ににりはじめた。しかし乗って帰ってきては疲れた体をビールで潤してしまい、なかなか体重が減らなかった。1日で帰ってきてしまうからやせられない。ならばと自転車を借りて2〜3日の度に出た。こぎ進むうちに、この先は何県だか確かめたい、何があるのかみてみたい、といった思いが芽生え、東京から沖縄までママチャリで来てしまった。


この人はなりゆきを決然と生きているなあ、と思った。身を流れに委ねる一方、その流れをしっかりと楽しみ、また流されつつも針路は常に自分でとってきた。


自由とはこういう状況に近そうだ、と思った。


人生を歩くとき、その道を自分で考えないのはもったいない、が決めつけすぎてもいけない、周りの状況に流されつつも流されている自分を客観的に認識し、楽しみ、ただいつでもその流れから抜け出せる力を持っておく、くらいのバランスがちょうどいい。

なりゆきを決然と…、今日は生きただろうか。

2011年7月24日日曜日

ひめゆり

考え方の違いを乗り越えることはなかなか難しい。


たとえば日本には憲法九条の議論がある。護憲か改憲か。自衛隊は違憲か合憲か。その海外派遣に積極か慎重か。これらの論争はどうしても、右か左か、といようなイデオロギー含んだ対立になりやすい。


そうした方が相手を批判しやすいし自分の主張の筋も通しやすいから、多くの人がレッテルをはることに頼ってしまっている。そうしてイメージだけで議論して思考を停止させてしまう。本当に闘わなくてはならないのは考え方の違う相手ではなく、客観的に違う主張を理解しようとすることを妨げる自分自身の主観ではないだろうか。


結局は方法論違いなのだ。九条の原点は、広島の平和記念公園の石碑に記されいる通りだ。「過ちはくり返しませんから」。多く犠牲者を出し、深い傷を残した戦争を二度とくり返さない、という教訓からきている。


ここをもう一歩掘り下げる。多くの犠牲と深い傷の主体とは、もちろん人間の命と尊厳のこと。それを尊び、大切にできる平和を守るということになる。誰だって自分の生や権利や人格を侵されたくない。家族や友人や恋人と幸せに生きたい。これが歴史の過ちから得た絶対的な原則だ。


ではこれをどう実現するのか、というところで意見が分かれてくる。


ある人はそもそもの戦争の元となる武器や軍隊から距離を置くべきだと訴える。ある人は現実的にみて、最低限の自衛能力は必要だと考える。ある人を主権を守るためには相応の軍備が必要だと声を上げる。どれも「国民の利益のために」という理由だ(国民の利益=「過ちをくり返さないこと」なのか、それとも「今の国民生活を守ること」なのかで微妙な差異が生じているとも言えなくはないが)。


くり返すが、目的の達成のためにどういうアプローチをかけるべきなのか、で対立が生じているのだ。無論、正解などわからない。ただ、だからといって「それは歴史の判断に任せる」などと言ってはいられない。ベストがわからないから(無いのかもしれないけど)ベターを探す努力を続けなくてはならない。


その上で一つ大切だと思うのは、どんなに意見や考え方が異なろうと議論の土台を共有することだと思う。憲法の議論であればその土台は戦争にあたる。一人一人の当たり前の日常や、未来への希望や、大切な人が失われたあの戦争だ。痛々しすぎる個々の戦争体験を、理屈よりも感性でもって、認識する。そして、過ちをくり返さないためにどうしていくべきなのか、知恵をしぼって考えればいい。

………と、ここまで難しいことを書き連ねてきたのには一応理由がある。昨日、7年ぶりに「ひめゆりの塔」を訪れた。2泊2日の強行ショートトリップ。昨日の午前3時に那覇へ到着し、ロビーで仮眠をとろうとしたところ警備員のおじちゃんに追い出されたのでしぶしぶ外のバスロータリーのベンチで夜が明けるまでなんちゃって野宿をした。空が明るくなりセミが鳴き始めたころバスに乗って本島南部を目指した。


前回はよほど流して見ていたせいか、それとも多少は知識がついていろいろな見方ができるようになったせいか、資料館の展示内容には新しく驚かされるばかりであった。師範学校や女子高等学校で一生懸命に学ぶ16、17歳くらいの少女たちの姿、沖縄が戦場となりひめゆり学徒隊として前線に動員されていく過程、病院代わりの壕の中での負傷兵の看護や手術の様子、6月23日の解散命令以降の生きるか死ぬかの逃避行、まんべんなく説明されていた。生き残った元学徒の方から、一人称で当時の様子や心境も聞くことができた。一人の人生に焦点をあてると、より現実的なものとして理解しやすかった。

たまたま手榴弾を持ってなくて自決できなかったから、たまたま数メートル壕の入り口より中にいたから、たまたま足をけがして動けなくなったから、偶然の連続で助かって今こうして生きている、とどこか悔しそうに話していた。自分ではなくもしかしたらあの子が助かっていたかのもしれない。たまたま自分だけ生き残ってしまった。そんな思いがあるのかもしれない。


生きるか死ぬかが「運」で決まる。それだけ命が軽んじられてしまった歴史があったのだと、反省せずにはいられなかった。


ひめゆりの塔から平和の礎のある公園までの約4kmを歩くことにした。日陰の無い国道沿いを容赦ない日差しにさらされながらだらだら進む。半袖半ズボン。頭にタオルをかぶせて。右手にはなだらかなさとうきび畑の斜面、その先に青い海がある。当時は、斜面は赤く染まり、海原はグレーの軍艦で埋め尽くされていたという。いま立っている同じ場所に絶え間なく艦砲射撃が降り注ぐ様子は、想像しづらかった。


人間は忘れてしまうものだなあ、としみじみ思った。中学高校と戦争について学ぶ機会は少なくなかった。沖縄戦も広島長崎も、それらについて知るたびにいまと同じように考えたり、同じような心持ちになったりしていたはずだ。それでも、忘れてしまっていた。数年ごとでもいいから、定期的に歴史を反復勉強することが重要だと気づいた。ぼくにとってのことだけではない。すくなくとも投票権のある人はそうした方がいい。いまに積み重なってきている歴史の原点を学ぶことをやめてしまったら、いまの自分の立場や利害関係、世の中の空気に簡単に流されてしまうから。

人間にとっての本質や原点を、学びつづけたい。


ゲストハウスに戻り近くのスーパーで夕食と翌朝の朝食を買い込み(2食分でそば1kgを確保した)、そばを食い、翌日に備えて早々と寝た。


沖縄に来たのは就職の選考試験のため。この気候のなかスーツで歩くのは不快そのものだった。試験は思っていた以上にできたので幾分気分は快方に向かった。


会場から出てネットカフェで就職関連の書類を印刷し、出発の4時間前に那覇空港に着きA&Wでよく冷えたルートビアを飲みながら、エントリーシートをせかせか書いた。


時間は有限だ。遊ぶこともなくすぐに東京に戻ってきた。今度はゆっくり沖縄を楽しみたいものだ。と思いつつ世田谷の住宅街を歩いている。


家はもうすぐそこだ。

2011年7月13日水曜日

ボランティア ~まごころの力~

やまびこ288号東京行の指定席のシートに疲れた体をもたれかからせながら3.11から現在までを振り返ってみる。


ぼくの現実世界は、せまい。日々の大学生活やアルバイト、就職活動を消化するだけで精一杯で、見えるものも考えることもそれらを軸にした一定の範囲でしかない。一人の人間だからそれは仕方ないこと、と割り切ってしまってはいけないと思いつつも、なかなかその枠を越えることは難しい。


3.11東日本大震災が発生してからも、なにかと理由(と、ここまで書いて携帯電話の電池が切れた。この先はやまびこの中ではなく学校の図書館で書いております)を探しては東北へ向かう一歩を踏み出さないでいた。


そんな中で背中を押してくれたのは、「危機感」だった。3.11から4ヶ月が過ぎた今も、新聞やテレビで東北の現状や原発などの報道が続いている。あるとき、いつものように新聞を開き、震災関連の報道を避けて読んでいる自分に気づいた。風化とか無関心とかそういった類の理由ではない。疲れてしまっていたのだ。報道を通してでしか現地を想像できない。どんなに共感しようとしても、震災の傷の深さには追い付かない。自分の日常の中からではアプローチできない大きすぎるものから、無意識に距離を置こうとしていた。沖縄や六ヶ所村へ行ったときと同じように、実感が必要だと思った。いま、現地に立ち、現実を五感で吸収しておかなければ、災後の現実世界とぼくの生き方との間にずれが生じてしまうのではないか。このような「危機感」を覚えた。


実際に箱崎に立って、「同じ時間」が流れているんだ、というあたり前のことに気付いた。ぼくが毎日学校まで歩き、図書館で勉強し、めしを食い、走ったり、ラジオを聞いたりしているその時間に、箱崎の人は壊れた家々を眺め、住宅の掃除をし、散らかった家具を片づけ、津波警報を聞いている。流れている時間は、確実に同じなのだ。


これだけ大きな震災ですら、自分の生活外の話、遠いところの話、別の世界の話、どこかで手の届かない世界の話だと感じてしまうことがある。「風化」を進行させるのは「実感のなさ」だと思う。いま、この瞬間を、この時間を、生きていて、震災から立ち上がろうとしている人がいて、避難所で肩身の狭い生活をしている人がいて、仮設住宅で孤独を感じている人がいる、という実感がなければ忘れてしまうのも無理はない。


実際に箱崎の水路や陸前高田の高台に立って触れた、石油の混じったようなヘドロのにおいや、スコップで救った土砂の重みや、自分の生活の再建で精いっぱいのはずなのにボランティアに差し入れを持ってきてくれる現地の人の心遣いや、仮設住宅で暮らす人の疲れ切った表情や、広大な沿岸部の更地に舞う土埃の息苦しさや、筋肉痛や、取れない疲労は、少なくとも震災の傷や復興への課題を実感させてくれるものだった。


風化は、震災が投げかけた文明への問いを弱めてしまう気がする。生活のあり方、地域のあり方を見直してくれという震災が発した声を小さくしてしまう気がする。当事者でないぼくがこの「風化」に立ち向かうための武器は、「実感」しかない。この武器を拾うために、やはり現地に行く必要があったのだと思う。



遠野まごころネットでは、個人ボランティアの受け入れ態勢がしっかり整っている。泊るところもあるし、物流も十分だ。毎日シャワーや風呂にも入れるし、食料も容易に確保できる。様々な地域、国、年代の人との出会いがあり刺激にもなる。ボランティア向けの温泉ツアーやホタルツアーなども企画され(自分でなんでも企画できるし)楽しみながら地元にお金を落としていけるようになっている(寄付よりも直接的な支援になる)。チームで一緒に汗を流したからこそ、いい友達もできる。共同生活の場では、他人への思いやりや気遣いなど人として大切なことも学べる。


「ボランティア」=がれき撤去で汗を流す、ことだけではない。避難所での炊事の手伝い、仮設住宅でのコミュニティーづくり、復興の進む現場での集落インフラの復旧など、いろいろなニーズがあり、役割がある。だから、より多くの人に参加してほしい。特にこれから社会を担っていく若者は、どういう社会を創っていくのかを考え、ある程度の方向性を同世代で共有するためにも東北の現場に立ってほしい。



「情熱は伝染する」


作業終了後、毎日5時半から福祉センターの体育館で行われる全体ミーティングのしめに、ボランティアの代表がいつも言っていた。活動を通して見たもの感じたことを、日常に帰ってから多くの人に伝えてほしいと。


復興とは、未来をつくることだ。


情熱を伝染させ復興へ向けて多くの人を巻き込んでいけたらいい。


2011年3月11日以降の世界を生きるために。

2011年7月11日月曜日

7.11 ~まごころの力~

作業最終日。


陸前高田の仮設住宅へ行った。


トヨタ・ハイエースに5人が乗り込み陸前高田市街地から少し離れた高台にある高田高校の仮設住宅を目指した。遠野の盆地から山間に伸びる国道を走る。この地域の山は、関東の山よりも傾斜が緩く見える。樹種も多い。林の年齢も複数階に分かれているようだ。遠野の林業は環境に恵まれている(少なくても生産と搬出に関して言えば)ように思えた。


国道を1時間強進むと、道路と平行に流れていた川の岸辺に乾いた泥が目立ちはじめた。視線をフロントガラスに移すと、窓の向こうにはセピア色の世界が広がっていた。


とにかく広いのだ。陸前高田市街地には建物がほとんど残っていないため、山間の道路から海まで見通せる。こんなに広い更地を日本で見たのは初めてだった。つまり、日本らしくない風景なのだ。流された車は形こそぐしゃぐしゃだが、一区画にきれいに並んでいた。地面からは乾いた肌色の土埃が舞い上がり、 その空間の中にうまく津波で壁と屋根と柱だけになったコンクリートのビルがとけ込んでいた。なんとなく、埃っぽい冬のチベット高原を彷彿させた。


被害は大きいが、復旧は進んでいる。重機やトラックの数は箱崎よりはるかに多い。家の残骸や車はほとんどまとめられつつある。この夏が終わるころにはもしかしたらここはきれいな更地になっているかもしれない。そう思った。


仮設住宅地でお茶会を開いた。高田高校グラウンドにある仮設住宅に到着しテントを立て、お茶やお菓子を準備したあと、呼びかけを行った。仮設住宅を一軒一軒ノックして回り、お茶会を開くことを伝えていった。好意的な受け答えをする人、疲れた表情で適当にあしらう人、反応は様々だった。


好意的に返事をしてくれた人はほとんどお茶会に来てくれた。ぼくらボランティアは「質問しないこと」を心がけた。お茶を出しお菓子を勧め、住民の世間話に相づちを打つ。たしかに現在の状況や震災当時の話など知りたいことはたくさんある。だが、同情したり震災を自分のものにするために聞いても意味がない。質問することで相手の負担にもなる。それはボランティアの仕事ではない。ぼくたちがお茶会を開く意味は、仮設住宅コミュニティーでの人と人とのつながりをつくることにある(と思う)。


初めて会う住民同士がお茶会で会話をして笑顔になって、また合ったときに会釈以上のあいさつができるようになってくれれば、それはお茶会の存在意義になる。集落が全て流され、住民同士をつないできた伝統的な行事や文化ができなくなっている。多様なイベントを開きこれを補完していくことがボランティアにできることの一つなのだ、とお茶をすすりながら談笑する住民の姿を見ていて感じた。


東日本大震災から4ヶ月がたった今日、7.11キャンドルナイトが遠野市福祉センター前にて行われた。黙祷や宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の朗読がセレモニーの中にあった。ろうそくの火を見ながら心の中で「忘れるな」と、何度もくり返しつぶやいた。


当事者をはじめ、現場を見たボランティアたちはこれから闘わなくてはならない。風化という自然現象と。

2011年7月10日日曜日

津波警報 ~まごころの力~


7日目

やっと、水路が通った。


朝食にもやしマイタケかにかま味噌ラーメンを食べた。持参したコッヘルにもやしとマイタケとかにかまとインスタントラーメン二袋分をいれバーナーで煮立たせ、麺がやわらかくほぐれたら完成。食べごたえ十分で胃も温まるので目覚の一杯におすすめだ。

ここ2日間ほど釜石の最高気温は36度を超えている。長そで長ズボン防塵マスクにヘルメット、時々ゴーグル着用の装いで水路の泥出し作業に励むボランティアにとっては過酷な状況だ。熱中症になった人も何人かいた。スコップ一杯の土砂はとにかく重い。その土砂をたくさん積んだ一輪車もまた重い。力を振り絞る動作が連続する作業では、体は自然と熱を持つ。本来ならその熱を冷ましながら作業を続けたいところだが、炎天下では叶わない。暑い夏の日にこたつに入ってチゲ鍋をつつくような不快さが感じられる。


だが、そんな状況には負けなかった。箱崎隊は皆よく働いた。高さ1m幅1m作業全長約150mの水路に厚さ約60cmほどで積もっていた土砂、合計約3t(目視で適当に測った)を全て取り出した。水路に濁っていない水が流れるようになった。魚もちょくちょく遊びにくる。この光景が少しでも箱崎に活力を与えてくれたら、と願わずにはいられない、そんな達成感に包まれた。


作業中、地震が発生し津波警報が鳴った。揺れは強くないが、近くにある鉄骨の骨組みだけが残った漁協の建物が、ギシギシと音を立てて揺れていた。予想された津波の高さは6cm。海と直接つながる水路に潜り込んで泥出しをしているぼくたちにとっては、少しの津波でも命に関わる。作業を中断して高台へ非難した。といっても危機感はほとんど無かった。やはり「6cm」と聞いて安心していた。ここまでは来ないだろうと、高台では思っていた。それ以上のことは想像も想定もしなかった。というよりもできなかった。6cmという情報と高台にいるという状況は、ぼくらを安心させた一方、思考を止めさせた。規模は違うにせよ、震災当日もこのようなことがあったのかもしれない。堤防があるから、前はここまで来なかったから、そんな安心感が被害の拡大に一役買っているとしたら、安心感の根拠を問い直す習慣が必要だ。


アメリカ育ちの15歳と一緒に遠野市街までサイクリングし、駅前通り沿いの食堂で夕食をとった。田舎定食1,000円。遠野のひっつみには感動した。なかのすいとんがモチモチだったから。


サイクリングの結果、遠野の中心市街地は寂れている、という事実を突き止めた。日曜日の夜7時だというのに開いている飲食店は10軒に満たなかった。ほとんどの店はシャッターを下ろしていた。豊かな自然があって、奥深い歴史や文化があって、おいしい食材が揃っていて、気持ちのよい風が吹く遠野は、どうも元気がない。あるものを生かしたまちづくりが十分でないのは明らかだった。震災の影響だけではないだろう。むしろそれを逆手にとった地域振興策を見いだしていかなければならない。


明日は作業最終日。箱崎で最後を締めくくりたいところだったが、やめておく。復興の別の面を見るために、明日は仮設住宅の住民にお茶を出してくるつもりだ。

2011年7月9日土曜日

頑張ることの意味 ~まごころの力~

feels like beer.


とんで6日目

遠野駅近くで開催されたビール祭り。おいしい地ビールを飲み放題ということでついつい飲みすぎてしまった結果、寝起きの気分はビールのようだった。


お祭りには遠野の地元住民とまごころネットのボランティアが数多く参加していた。広場に張ったテントの下にビールケースを逆さにして作られたイスと机が置かれ、そこに座ってただただビールを飲むというものだった。ジャズとビールと酔っ払いのおじさんたちに囲まれながら、ビールの泡のごとくおいしい時間ははじけて過ぎていった。


ビールが残ったせいか現場での作業はいつも以上につらかった。箱崎の水路は山沿いの家家々の間を縫って海に続いている。その中腹辺りから始めた泥だし作業は今日であと数メートルで海に届くというところまで来た。道路の下の水路に潜り込み、泥や砂利を崩しながら箱に入れ、それを海沿いの排水口から引っ張り出す。「頑張らないでください」と隊長に言われていたものの多少必死にならないとできない作業だった。土砂の入った箱は重いし、水路の中ではずっと腰を曲げ頭を下げた姿勢でいなくてはならないし、かといって外に出ると30度を超える気温に容赦なく包まれる。暑いし筋肉痛いし頭ぼーっとしてくるし泥水まみれになる。復興へ向けて越えるべき山は、まだまだたくさんある。


ちなみにこの箱崎隊は外国人が活躍している。モンゴル人のウーガン隊長をはじめ、カリフォルニアから来たヘイデン、ニューヨークから来たタナベ君、ミネソタから来たウィル、韓国人留学生のチョウさん。皆よく働く。時々すれ違う地元の人々は彼らにはより丁寧に言葉をかけているように見える。勇気づけられるんじゃないかな。遠くから足を運んで、泥と汗まみれになって一生懸命になって働く彼らの姿に。


人が頑張っている姿って、感動するし美しいと思う。そんな姿を多くの人が見せに来てくれることで、勇気づけられる人もいると思う。

汗と泥とのコラボ臭漂う洗濯物を託したコインランドリーにて。

2011年7月7日木曜日

活力 ~まごころの力~


4日目

体育館で誰かと話している夢を見た。目を覚ますと体育館にいた。頭の中は、体育館のことでいっぱいらしい。


背中の重みが昨日より増している。液体金属でできた新型ターミネターが液体窒素をかぶってみるみる凍結していく、あの有名な映画のワンシーンを思い出してしまったほどに、体中の筋肉がばりばりしている。


どうせまた箱崎だろ。と、言われてしまいそうだが反論はしない。今日も同じ場所に行ったのは事実だから。それでも、昨日記したようにせめて、何かやったぜ、と自己満足できるような仕事をを終えてから帰りたい。それが箱崎の水路掃除なのだ。


さて、自覚している以上に疲れがたまっている。遠野から釜石箱崎までの約1時間半のバスの中、熟睡した。体力的にはむしろ歓迎したいほどの疲労感で心地よいのだが、精神的な疲労が蓄積されているようだ。繰り返すが、自覚はない。体育館での窮屈な生活、いろいろな人との出会い、非現実的な光景に毎日毎日直面しているからだろう。


一般的にボランティアには1〜2習慣程度のタームで参加するのが良いといわれている。遠野まごころネットへの参加登録の際もそのような注意書きを読んだ。なぜか。科学的にはいろいろと言えるのかもしれないが、今までの活動から考察してみると「代謝」が大切なのだといえる。


1、2ヶ月もずっと活動しているとボランティアも被災してしまう。津波によって壊された街や、傷ついた人の心に触れているとあまりに共感が深くなってしまうのだと思う。ボランティアは単なる労働力ではない。震災後の復興を支える「活力」なのだ。だから、慎ましく礼儀正しくも、ひたむきな明るさを持っていなければならない。それを保っていられる期間が1〜2週間ということのようだ。


ぼくはまだ、「活力」を持っている。疲れてはいるけれど。箱崎の水路をきれいにして、少しでも復興へつながる仕事をしたいと思っている。ちなみに「復興へつながる」とは水路をきれいにする、という実際的なことを意味していない。「部屋を掃除したら、ちょっと模様替えをしてみたくなる気持ち」を箱崎の人に届けることだ。自分の家や流された一階部分を建て直している人は少なくない。ただ、周囲は流された材木や鉄骨や腐った海産物でぐちゃぐちゃのままだ。見る度に気持ちが萎えてしまう。これが少しでも改善されれば、前向きに復興へ取り組む一つの活力になるはずだ。そうぼくは決めつけて、自分に言い聞かせて、体を酷使している。


ちなみに作業では、先が見え始めた。今日はようやくミニユンボ(小さいショベルカーみたいなやつ)が入り、今まで人力で持ち上げていた水路のふたを片っ端からあけてくれた。これで作業がはかどるぜ、と喜んでいてはいけない。ぼくたちは文句を言い続けなければならない。ぼくたちが活動する箱崎町の集落には重機がほとんど入っていない。日に2〜3台程度しか見たことがない。がれきを運び出すダンプカーさえ、数えるほどしか行き来していない。もうすぐ災後4ヵ月を迎えるというのに、ゆっくりとゆっくりとしか復興は進んでいない。反面、震災の風化は加速度的に進む。


忘れる前に、一度来てくれ。一緒にここから文句を言ってくれ。そんな声が、聞こえた気がした。

2011年7月6日水曜日

溝 ~まごころの力~

パンポンパンピン。


3日目

チャイムで目が覚める。体を起こすと、肩甲骨のまわりがびきびきときしむ。筋肉痛。スコップで泥をすくい上げる動作を繰り返した昨日の作業が、後を引いている。まだ寝たい、と強く願ったが周りが慌ただしく寝床を片付けていたため、同調するしかなかった。


相変わらず、遠野の朝は気持ちいい。オールレーズンとカロリーメートとおいしい牛乳を、センターの庭の岩でぼーっとぼそぼそと食べた。朝食の味よりも、肌で感じる空気で目が覚める。


また、箱崎へ行った。途中で見える釜石市街の風景は昨日とほとんど変わっていない。もちろん箱崎も。目が慣れる。初めて見たときほど、緊張感を感じない。これが外と内との差だろうか。自分の思い出や思い入れが詰まった土地であれば、これが破壊された光景を見る度に痛むものがあるのかもしれない。直接被災していないぼくに、それはない。


遠野まごころねっとには毎日多くのボランティア求人が寄せられる。がれき撤去、泥かき、炊き出し、足湯、写真清掃など、ボランティアに提供される様々な選択肢のなかでぼくは昨日と同じ仕事を選んだ。他のところを見てみたいという思いもあったが、昨日の側溝の泥出しの続きを投げ出してしまいたくなかった。「ボランティア体験」ではなく、「ボランティアとしての仕事」をしっかりとやりたかった。自分の興味だけで単発的に様々な作業に携わるだけでは、復興への思い入れを残せないような気がしたから。ここだけは元に戻す、という思いを持ちたかった。


要領を掴んだ分、作業はきつかった。ここをこうできる、ここをこうしたらこうなる、というように自分でやれること、やるべきところが見えるようになるとその分体を動かす機会が増えるのだ。


側溝の泥だしといっても、シンプルではない。高さ1m幅1mの水路が山から海に向かって集落内を通っている。溝には重さ50kgはありそうなコンクリートのふたが何個もかぶさっている。それをバールで持ち上げてずらし、できた隙間に人が入って水路内の泥や砂利をすくい出していく。スコップ一杯で3〜5kgのになるだろうか。とにかく何度も何度もかがんで、すくって、持ち上げて、放り投げる、を繰り返す。うまくスコップがはいらなかったりもする。ふたの下に潜り込み、這うようにして水をせき止めている泥と砂利のダムを崩すこともある。普段使わない筋肉をやたら使う。汗もだらだらかく。


なんとか、この水路をきれいな水が通るようにできたら、一つの仕事をしたことになる。勝手にそう決めて、勝手に頑張っている。それでいいと思う。ボランティアなんだから。


帰りのバスの中、明日も同じ作業に参加するかどうかの確認をとるためのチェックリストが回ってきた。 ぼくは少し迷って、自分の名前の横にチェックをつけた。


センターに戻ってきて、全体ミーティング、お風呂、とんかつ定食、洗濯(手洗い)、これを書く、とやるべきことを消化しているうちにもうこんな時間(投稿時間)。体育館に戻って寝よう。筋肉痛よ、しずまれ。

2011年7月5日火曜日

箱崎 ~まごころの力~


2日目

目を開けると、薄暗い空間の先に高い天井が見えた。一瞬、ここはどこじゃ!とお決まりに狼狽してから、現実にもどった。そうだ、今日から本格的に作業が始まるのだと。


復興ボランティア初日。遠野の朝は涼しい。市民福祉センターの庭の石に腰掛け肌をさすりながら、朝食のパンをかじった。7時30分からセンター中央玄関前で朝礼が始まった。各行き先ごとに仕事内容と募集人数が紹介され、ボランティアは希望する場所へ参加する。


遠野まごころねっとの主な派遣先は陸前高田、大槌、釜石市箱崎だ。どこへ行こうか迷った。そこで、ふとずいぶん前に読んだ新聞記事を思い出した。震災後もしばらく道路が寸断され支援が遅れている地域がある。それが、今回初めてのボランティア参加地として選んだ釜石市箱崎町だ。


センター発のバスに乗り込み、遠野から沿岸へと伸びる山間の道路を進むこと約1時間。釜石駅に到着し、トイレ休憩をとる。「あれ、思ったより普通だ」と辺りを見回すと、駐車場とロータリーを隔てる鎖を吊した柱が一本折れ曲がっていた。もしかしてここまで来たのか、という疑念を抱きつつバスに戻った。数分後、釜石市街を走るバスの車窓に映る光景が、その疑念を打ち消した。


シャッター通り商店街。ではない。降りたシャッターはぐにゃりと変な方向に折れ曲がり、シャッターのない店はベニヤ板で入り口を塞がれているか、何もない入り口から裏にはまで見通せるほど、すっかり建物内の物は無くなっているかだった。


商店街を抜けると、ひん曲がった鉄骨やらタイヤやら木材やらブロックやらが無造作に積み上げられた人口の山や、赤い骨組みだけが残った建物が左右に並んでいた。目をつぶると、黒々とした濁流がまぶたに浮かんだ。


市外を抜けバスは山を上っていく。所々に、やはり商店街で見たような災害の痕跡が残っている。 車の突き刺さった小学校やえぐれた山の斜面や凸凹になった道路が次から次へと現れる。もうすぐ4ヵ月だよな。それでもまだ。それでもまだ。同じようなことをずっと反芻していた。


「壊滅」。この言葉を何度も新聞で呼んだし何度もテレビで聞いたけど、箱崎の様子を見てようやくしっくりきた。海の波の音とも、空を泳ぐとりの鳴き声とも、合わない光景が広がっていた。一階部分を流された家が数件山沿いに残っているのを除けば、あとは壊れている。何も無いわけではない。鉄骨も木材もあるし、家の基礎もある。そこに町があったことは明らかなのだ。だけど、生活の気配がない。


今日の作業である側溝の泥かきは、そういう光景を見たあとでは本当に本当に小さい作業でしかないように思えた。泥と油が混ざったような臭いを無視しながら水分を含んだ重たい泥をスコップで何度も何度もすくい上げた。汗は出るし服は汚れるし筋肉も痛み出す。1人の力ってなんて小さいのだろう、そう思った。それでも自己満足だけは得られる。今まで、遠目から眺めているだけだった震災の現場で、自分の無力を感じれるほど汗を流していることは、少なくとも東京にいてなにもできないもどかしさを打ち消してくれた。矛盾している。無力感が別の場所では無力感をうちけしているのだから。


なぜか、自分の生活やこれからのことでいっぱいいっぱいのはずの現地の方から差し入れや昼食をいただいた。無力感はますます無力感を呼ぶ。何もできてないのに、逆に何かをいただいている、と。作業とそんなもやもやを受け入れていた精神の疲れもあって、帰りのバスではよく眠れた。


この夜、遠野まごころねっとがどのように組織されていったのかについての話を聞いた。多くのNPOや団体がつながり、多くの個人ボランティアの受け皿となっているこの組織のキーワードは「緩い結束」。ある程度同じベクトルさえ持っていれば、あとは各々が自分の得意とする手段で、共通の目的をめざせばいい。そういうオープンなスタンスらしい。なるほど。おもしろい。これからの復興支援のあり方を導いてくれる、そんな理念に思えた。

遠野の夜の空気は冷たい。いくら星がきれいだからといって、庭の岩に腰掛けてこれを書くのはそろそろ終わりにしよう。明日のために、もう寝よう。

明日のために。

2011年7月4日月曜日

遠野 ~まごころの力~

東日本大震災で被害を受けた岩手県沿岸部。そこでのボランティア活動を通して見たもの考えたことを記録しようと思う。


1日目


これから一週間、乗り切れるだろうか。容赦ないいびきの嵐を、聞きながら少し不安になった。




2011年7月4日21時34分。ぼくはいま岩手県遠野にある市民センターの体育館の中で、寝袋にくるまって横になっている。頭の方向約3m先にはいびきのおじさん。1m左右にも見知らぬおじさん。なんだか肩身が狭い。


ここ、遠野の市民センターは岩手県沿岸部の被災地へボランティアを送り出す拠点となっている。様々なNPOが合わさってできたボランティアネットワーク『遠野まごころねっと』が運営している。


11時34分大宮発の新幹線に乗って(実は指定席で9時代の新幹線を予約していたのだが、まさかの寝坊。開き直って2時間ほど後の列車で来た)花巻で途中下車。駅前の農協に併設されたレストランでかもにく丼とひっつみを食べてから釜石線に乗り込んだ。ディーゼルエンジン、2両編成。遊園地のアトラクションに乗っているような気分で車窓を眺めつつ、遠野に向かった。


ボランティア拠点の市民センターは遠野市街地からやや外れたところにあった。ボランティア登録の受付では、細かいルールを説明された。現場での装備や施設(ボランティア拠点)の使い方など、「ボランティア」としての条件のようなものがたくさんある。まだまだ全てはわかりきっていないけど、早くここでの生活に慣れたい。


自分の動きたいように動けず、24時間ずっと他人に気を使って生活しなければならないことを思うといささか気が重いが、これも経験と割り切ろう。見知らぬ人が隣で眠っていることにも、彼らのいびきにも、慣れよう。


それにしても避難所の生活って、もっと大変なんだろうな。自分の過ごしやすい日常を失うことって、想像以上に生きづらいのかもしれない。