2011年7月6日水曜日

溝 ~まごころの力~

パンポンパンピン。


3日目

チャイムで目が覚める。体を起こすと、肩甲骨のまわりがびきびきときしむ。筋肉痛。スコップで泥をすくい上げる動作を繰り返した昨日の作業が、後を引いている。まだ寝たい、と強く願ったが周りが慌ただしく寝床を片付けていたため、同調するしかなかった。


相変わらず、遠野の朝は気持ちいい。オールレーズンとカロリーメートとおいしい牛乳を、センターの庭の岩でぼーっとぼそぼそと食べた。朝食の味よりも、肌で感じる空気で目が覚める。


また、箱崎へ行った。途中で見える釜石市街の風景は昨日とほとんど変わっていない。もちろん箱崎も。目が慣れる。初めて見たときほど、緊張感を感じない。これが外と内との差だろうか。自分の思い出や思い入れが詰まった土地であれば、これが破壊された光景を見る度に痛むものがあるのかもしれない。直接被災していないぼくに、それはない。


遠野まごころねっとには毎日多くのボランティア求人が寄せられる。がれき撤去、泥かき、炊き出し、足湯、写真清掃など、ボランティアに提供される様々な選択肢のなかでぼくは昨日と同じ仕事を選んだ。他のところを見てみたいという思いもあったが、昨日の側溝の泥出しの続きを投げ出してしまいたくなかった。「ボランティア体験」ではなく、「ボランティアとしての仕事」をしっかりとやりたかった。自分の興味だけで単発的に様々な作業に携わるだけでは、復興への思い入れを残せないような気がしたから。ここだけは元に戻す、という思いを持ちたかった。


要領を掴んだ分、作業はきつかった。ここをこうできる、ここをこうしたらこうなる、というように自分でやれること、やるべきところが見えるようになるとその分体を動かす機会が増えるのだ。


側溝の泥だしといっても、シンプルではない。高さ1m幅1mの水路が山から海に向かって集落内を通っている。溝には重さ50kgはありそうなコンクリートのふたが何個もかぶさっている。それをバールで持ち上げてずらし、できた隙間に人が入って水路内の泥や砂利をすくい出していく。スコップ一杯で3〜5kgのになるだろうか。とにかく何度も何度もかがんで、すくって、持ち上げて、放り投げる、を繰り返す。うまくスコップがはいらなかったりもする。ふたの下に潜り込み、這うようにして水をせき止めている泥と砂利のダムを崩すこともある。普段使わない筋肉をやたら使う。汗もだらだらかく。


なんとか、この水路をきれいな水が通るようにできたら、一つの仕事をしたことになる。勝手にそう決めて、勝手に頑張っている。それでいいと思う。ボランティアなんだから。


帰りのバスの中、明日も同じ作業に参加するかどうかの確認をとるためのチェックリストが回ってきた。 ぼくは少し迷って、自分の名前の横にチェックをつけた。


センターに戻ってきて、全体ミーティング、お風呂、とんかつ定食、洗濯(手洗い)、これを書く、とやるべきことを消化しているうちにもうこんな時間(投稿時間)。体育館に戻って寝よう。筋肉痛よ、しずまれ。

2011年7月5日火曜日

箱崎 ~まごころの力~


2日目

目を開けると、薄暗い空間の先に高い天井が見えた。一瞬、ここはどこじゃ!とお決まりに狼狽してから、現実にもどった。そうだ、今日から本格的に作業が始まるのだと。


復興ボランティア初日。遠野の朝は涼しい。市民福祉センターの庭の石に腰掛け肌をさすりながら、朝食のパンをかじった。7時30分からセンター中央玄関前で朝礼が始まった。各行き先ごとに仕事内容と募集人数が紹介され、ボランティアは希望する場所へ参加する。


遠野まごころねっとの主な派遣先は陸前高田、大槌、釜石市箱崎だ。どこへ行こうか迷った。そこで、ふとずいぶん前に読んだ新聞記事を思い出した。震災後もしばらく道路が寸断され支援が遅れている地域がある。それが、今回初めてのボランティア参加地として選んだ釜石市箱崎町だ。


センター発のバスに乗り込み、遠野から沿岸へと伸びる山間の道路を進むこと約1時間。釜石駅に到着し、トイレ休憩をとる。「あれ、思ったより普通だ」と辺りを見回すと、駐車場とロータリーを隔てる鎖を吊した柱が一本折れ曲がっていた。もしかしてここまで来たのか、という疑念を抱きつつバスに戻った。数分後、釜石市街を走るバスの車窓に映る光景が、その疑念を打ち消した。


シャッター通り商店街。ではない。降りたシャッターはぐにゃりと変な方向に折れ曲がり、シャッターのない店はベニヤ板で入り口を塞がれているか、何もない入り口から裏にはまで見通せるほど、すっかり建物内の物は無くなっているかだった。


商店街を抜けると、ひん曲がった鉄骨やらタイヤやら木材やらブロックやらが無造作に積み上げられた人口の山や、赤い骨組みだけが残った建物が左右に並んでいた。目をつぶると、黒々とした濁流がまぶたに浮かんだ。


市外を抜けバスは山を上っていく。所々に、やはり商店街で見たような災害の痕跡が残っている。 車の突き刺さった小学校やえぐれた山の斜面や凸凹になった道路が次から次へと現れる。もうすぐ4ヵ月だよな。それでもまだ。それでもまだ。同じようなことをずっと反芻していた。


「壊滅」。この言葉を何度も新聞で呼んだし何度もテレビで聞いたけど、箱崎の様子を見てようやくしっくりきた。海の波の音とも、空を泳ぐとりの鳴き声とも、合わない光景が広がっていた。一階部分を流された家が数件山沿いに残っているのを除けば、あとは壊れている。何も無いわけではない。鉄骨も木材もあるし、家の基礎もある。そこに町があったことは明らかなのだ。だけど、生活の気配がない。


今日の作業である側溝の泥かきは、そういう光景を見たあとでは本当に本当に小さい作業でしかないように思えた。泥と油が混ざったような臭いを無視しながら水分を含んだ重たい泥をスコップで何度も何度もすくい上げた。汗は出るし服は汚れるし筋肉も痛み出す。1人の力ってなんて小さいのだろう、そう思った。それでも自己満足だけは得られる。今まで、遠目から眺めているだけだった震災の現場で、自分の無力を感じれるほど汗を流していることは、少なくとも東京にいてなにもできないもどかしさを打ち消してくれた。矛盾している。無力感が別の場所では無力感をうちけしているのだから。


なぜか、自分の生活やこれからのことでいっぱいいっぱいのはずの現地の方から差し入れや昼食をいただいた。無力感はますます無力感を呼ぶ。何もできてないのに、逆に何かをいただいている、と。作業とそんなもやもやを受け入れていた精神の疲れもあって、帰りのバスではよく眠れた。


この夜、遠野まごころねっとがどのように組織されていったのかについての話を聞いた。多くのNPOや団体がつながり、多くの個人ボランティアの受け皿となっているこの組織のキーワードは「緩い結束」。ある程度同じベクトルさえ持っていれば、あとは各々が自分の得意とする手段で、共通の目的をめざせばいい。そういうオープンなスタンスらしい。なるほど。おもしろい。これからの復興支援のあり方を導いてくれる、そんな理念に思えた。

遠野の夜の空気は冷たい。いくら星がきれいだからといって、庭の岩に腰掛けてこれを書くのはそろそろ終わりにしよう。明日のために、もう寝よう。

明日のために。

2011年7月4日月曜日

遠野 ~まごころの力~

東日本大震災で被害を受けた岩手県沿岸部。そこでのボランティア活動を通して見たもの考えたことを記録しようと思う。


1日目


これから一週間、乗り切れるだろうか。容赦ないいびきの嵐を、聞きながら少し不安になった。




2011年7月4日21時34分。ぼくはいま岩手県遠野にある市民センターの体育館の中で、寝袋にくるまって横になっている。頭の方向約3m先にはいびきのおじさん。1m左右にも見知らぬおじさん。なんだか肩身が狭い。


ここ、遠野の市民センターは岩手県沿岸部の被災地へボランティアを送り出す拠点となっている。様々なNPOが合わさってできたボランティアネットワーク『遠野まごころねっと』が運営している。


11時34分大宮発の新幹線に乗って(実は指定席で9時代の新幹線を予約していたのだが、まさかの寝坊。開き直って2時間ほど後の列車で来た)花巻で途中下車。駅前の農協に併設されたレストランでかもにく丼とひっつみを食べてから釜石線に乗り込んだ。ディーゼルエンジン、2両編成。遊園地のアトラクションに乗っているような気分で車窓を眺めつつ、遠野に向かった。


ボランティア拠点の市民センターは遠野市街地からやや外れたところにあった。ボランティア登録の受付では、細かいルールを説明された。現場での装備や施設(ボランティア拠点)の使い方など、「ボランティア」としての条件のようなものがたくさんある。まだまだ全てはわかりきっていないけど、早くここでの生活に慣れたい。


自分の動きたいように動けず、24時間ずっと他人に気を使って生活しなければならないことを思うといささか気が重いが、これも経験と割り切ろう。見知らぬ人が隣で眠っていることにも、彼らのいびきにも、慣れよう。


それにしても避難所の生活って、もっと大変なんだろうな。自分の過ごしやすい日常を失うことって、想像以上に生きづらいのかもしれない。

2011年4月18日月曜日

「安心」の土台




知人があきれたように話していた。


「雨に日に傘をさしてスポーツジムに行ったらね、ジムから数十メートルしか離れていない所に住む友達がわざわざ車で来てたんだよ。足でも痛めたのかって聞くと何て答えたと思う?放射能が恐いから念のためにね、と言ってたよ」


東日本大震災で事故を起こした福島第1原発から200㎞以上も離れた東京での話だ。知人があきれるのもわかる。新聞やテレビで毎日のように「シーベルト」や「ベクレル」という単位が解説され、その数値の変化によって人体にどのような影響がおよぶのか示されている。文科省は地域ごとの、大気中や降雨などに含まれる放射線量や放射能の強さを公表している。これらを参考にすれば、東京で放射性物質による健康被害を受けることは考えにくい。


放射能に関する最低限の知識や情報が得られる状況下で、あそこまで過剰に恐がる人がいることに驚いた。


「原子力に対する地元住民の理解は、他地域と比べて深いと思います」


青森県六ケ所村にある核燃料サイクル施設を見学したとき、運営会社の日本原燃の社員がそう話してくれた。施設建設時こそ反対意見が多かったものの、その後、原燃は積極的に事業内容や原子力について住民に説明を続けた。いまではほとんどの住民が理解をしてくれているようだ。


「不安はあるけど、政府や原燃を信用するしかないよ」


4日間の滞在期間中お世話になった宿の主人は、施設が近くにあることに不安はないのかとたずねた私に語った。不安でも、あるものはなくせない。ならばしっかりと安全に運営してもらうしかない。六ヶ所村住民の毅然とした態度と、原子力から遠く離れた東京の人の過剰に怯える姿との差異がずいぶんと大きく感じられた。


なぜ原発から遠い地域の人ほど放射能を恐がるのか。おそらく、「安心」は「信用」の上に成り立つものだからだろう。六ヶ所村の住民は誠実に説明をくりかえす日本原燃をある程度信用していた。しかし東京に住む私たちはどうか。情報源の行政やマスメディアを心から信用できるだろうか。


近所のスポーツジムに車で来る人のような、情報の受け手だけの問題ではない。「大丈夫、落ち着いて」と、人に安心を与えられるように、情報提供者は日ごろから市民に寄り添わなければならない。

2011年4月5日火曜日

揺れ

 3月11日午後2時46分。キーボードを叩きながら見つめていたパソコンの画面がゆったりと揺れはじめた。地震かな、と思いつつも手をまだ動かしていた。その日のうちに完成させなければならない書類を作っていたため、多少の揺れにかまっていられなかった。窓のブラインドが音をたてて波打っていた。ドンッ、とパソコンが大きくずれたと思うと、すぐ隣から悲鳴が聞こえてきた。周りを見回すが、パソコン室の中にいたはずの多くの学生がいなくなっている。よく見ると、皆机の下に隠れていた。あわてて机の下にもぐり込んだ。首を曲げたまま、隣の人と目が合った。その人の不安そうな表情を見て、自分が大変な事態に直面していることをようやく認識できた。


 揺れがおさまり外へ出ると校舎の中にいた学生や教職員が大勢立っていて、上を見上げていた。地震があったんだ、それもかなり大きな、と頭の中の思考が働きはじめた。「校内にいる生徒、教職員の皆さんは運動場に集まってください」。校内放送が聞こえてきた。ぞろぞろと人の流れに合わせて運動場へ行った。携帯電話を取り出してワンセグ放送を観た。三陸沖で震度7。アナウンサーが興奮した様子でくり返し「大きな地震がありました」と声を荒げていた。


 ふと、書類のことを考えた。企業へ提出する入社志望書。今日中に書かないと間に合わない。パソコン室に戻って作業を続けよう。頭の中でそう考えたが、体が動かない。これからどうなるのか。皆無事なのだろうか。胸の奥からふつふつと不安で重い感情が湧いてきた。初めて体験した大きな揺れは、今までの時間の流れを変えてしまったようだった。


 ほんの数時間前まで、なぜ働きたいのか、どんな人生をおくりたいのか、自分はどんな人間なのか、入社志望書に書くべき言葉を探していた。当たり前のように、今日書類を完成させ、郵送し、試験を受け、緊張しながら面接に臨んでいる、そんな近い未来が来るのだと思っていた。自分の想像できる範囲で時は流れ、その時々で苦労しながら前に進んでいく。人生を、ある程度想定通りに歩んでいくのだと思っていた。


 だが、変わってしまった。あの揺れの前と後とは、まるで別世界になってしまった。地震や津波、原発事故は多くの人の現実を変えてしまった。社会を取りまく状況が変わった今、自分の生き方をもう一度考えたいと思う。

2010年12月15日水曜日

受動と能動

 何かを「知る」には受動と能動、二つの過程がある。テレビと新聞との大きな違いはおそらくここにある。


 たとえば新聞を読むことは、能動的に何かを知ることだ。毎日ポストに投げ込まれる新聞を毎日読むことはそれなりのエネルギーを必要とする。紙面に敷き詰められた活字を目で追いながら、内容を頭の中で組み立てニュースを吸収していく。内容が複雑で一読しても理解できない場合はもう一度読み返す。そうやってじっくりと社会の出来事や世界の情勢を自分の中に取り込んでいく。真面目に読めば読むほど、社会や世界の現実を共有することができる。


 たとえばテレビを見ることは、受動的に何かを知ることだ。「さあ知ろう!」と構えなくても、ただテレビの前でぼーっとしていれば、ニュースは耳に入ってくる。画面の中のアナウンサーは、耳で聞いていれば理解できるような言葉であらゆる事実を語ってくれる。その声は、どんなに周囲に無関心を払っている人の耳にも届くだろう。


 メディアとしては、どちらも必要なのだ。それぞれに利点欠点を補い合って、人々に事実を伝えていく。そうして発信された情報は誰かにとっての何かの「きっかけ」になるかもしれない。「知る」ことで、人は何かを考えたり、疑問を抱いたり、怒ったり悲しんだり、会ったこともない遠い国の人を思ったり、他人の喜びや苦痛を想像したりもできる。


 人が人を思いやるには、ある程度その人の置かれている状況を知っているという前提が必要なのだ。現実を共有することで、共感の翼は大きく広がっていく。その翼に包まれた世界は、きっとわるくない。


 悩んでいる。ぼくは何を通して伝えるべきなのか。今日参加してきたNHKのセミナーは、メディアを見る視点を広げてくれた。「理解を深める報道」か「誰にでも届く報道」か。僕の原点、価値観、正義。すべてを研ぎ澄ませて、媒体を吟味していきたい。

2010年11月9日火曜日

六ヶ所村







 六ヶ所村の強い風で平行に飛び交う雨は、傘の下から直接ぼくの靴とズボンを打った。


 本州の北端・下北半島の付け根に六ヶ所村はある。なだらかの丘陵地形で、北西から強い風がいつも吹いている。海とつながる淡水の沼や湿地がいくつも点在し、曲線の丘と相まって美しい景観を創り出す。新鮮な海の幸が周辺の漁港に上がり、小さな小川には鮭が遡上してくることもある。冬を運んでくる秋風を受け止めるように何十基もの風車が立ち並び、山や空とのコントラストが味わい深い絵になる。人間の目線から村を眺めると、とても美しい自然や風景が広がっている。
 

 一方、六ヶ所村を上から見下ろすと、不自然なものが見える。白い大きな箱のような建物。原子燃料サイクル施設(原子燃料をもう一度使えるように加工する施設)だ。その他にも石油を備蓄するタンクが50基近く並ぶ石油備蓄基地もある。原子力、風力、石油。六ヶ所村は日本のエネルギー事情を集約したような地域のように見える。

 
 「沖縄と同じ構図があるのかもしれない」と考え、ぼくはこの地を踏んだ。一泊二食4500円の安宿を三泊分予約し、着替えと折り畳み傘と少なくない現金を持って、新宿・スバルビルの前から発車する夜行バスに乗って青森へ向かった。青森から電車と路線バスを乗り継ぎ2時間。雨風吹き荒れる六ヶ所村にたどり着いたのだ。

 
 原子力関連の施設がある、という程度の知識しか持たずに来てしまったため、まずは六ヶ所村の抱えるものの正体を探った。


 「原子燃料サイクル施設」とは、日本の将来のエネルギーを考える上でかなり重要なものらしい。食べ物を腐らせずに保存するためにも、温かいお湯に浸かるためにも、ドラマやバラエティ番組や速報を見るためにも、髪の毛を乾かすためにも、室内を快適な温度に保つためにも、手では拾えない塵を集めるためにも、歩いたり走ったりせずに移動するためにも、ぼくらはエネルギーを使う。石油・石炭、風、水、地熱、バイオマス、原子力、これらから得られるエネルギーは電気という形に変わり人間の生活を支えている。


 中でもエネルギー源としてその活用が現実的に期待されているものが原子力だ。石油・石炭などの化石燃料はそのほとんどを政情不安定な中東からの輸入に頼り、万が一のときに供給の保障を担保できない。さらに地球の未来を考えるとよくない。水力・風力などの自然エネルギーでは需要をまかないきれない上、気象によって発電量が左右される。となると、温室効果ガスも排出せず安定的の膨大な量のエネルギーを生み出せる原子力に期待が寄せられるのも自然な流れなのだろう。


 しかし、原子力発電にも限りはある。発電に使われるウラン鉱石は、石油や石炭と同じように採掘可能な量が限られているからだ。ちなみにエネルギー資源の可採年数はそれぞれ石油約42年、石炭約122年、天然ガス約60年、ウラン約100年(資源エネルギー庁発行資料より引用)となっている。ウランが有限の資源ということはそれを使用する原子力発電も決して半永久的なエネルギー源にはならない。と、思えるのだが、このウランを飛躍的に、長期間の使用を可能にするシステムがある。



 プルサーマル。



 原子力発電所で使用した後の核燃料(使用済燃料)をから取り出したプルトニウムを、ウランと混合してMOX燃料(Mixed Oxide Fuel)に加工し、原子力発電所(軽水炉)で利用することを指す。プルトニウムをサーマルリアクター(軽水炉)で利用する、という意味でそれぞれの言葉の頭を取って呼ばれている。


 通常のウラン燃料には燃えやすいウランが全体の3〜5%、燃えにくいウランが全体の95〜97%含まれ、この燃えやすいウランが核分裂を起こしエネルギーを生み出している。同時に、ウランの核分裂中にはプルトニウムが生成され、これ自体も核分裂するため、発電エネルギーの1/3はプルトニウムが生み出している。

 
 発電所で使い終わったウラン燃料(使用済燃料)には、ウランを燃やすことで発生したプルトニウムと燃えにくいウランが残っている。これらのうちまだ使用できるプルトニウムやウランを取り出し、合わせ、加工し、ウランよりもプルトニウムの発電寄与割合が大きいMOX燃料が出来上がる。これを利用することでウラン燃料を繰り返し利用できるようになるため、プルサーマルは原子力の安定供給になると期待され、原子燃料サイクルの要となっているのだ。


 六ヶ所村は、使用済燃料をMOX燃料に加工するための施設を持ち、原子燃料サイクルという将来の日本のエネルギーを担う事業を受け入れた場所なのだ。


 しかし、原子燃料サイクルは六ヶ所村だけでは完結しない。発電とともに生み出される高レベル放射性廃棄物の最終処分場の受け入れ先が未だ決定していないからだ。使用済燃料を再処理しMOX燃料に加工すると、廃液というかたちで放射能をもつ廃棄物が発生する。これをガラスと合わせて、安定した個体に変え地中深くに埋めて処分しなくてはならない。この最終処分場をどこに作るのか、ということが課題となっている。現時点で、候補地として名乗りを上げている自治体は無い。


 放射性物質の捨て場を提供する地域などあるのだろうか。たとえあったとしても、数百年という長い時間放射性廃棄物を抱えることになる地域には、風評や偏見といった負のイメージが付き纏う恐れもある。原子力を将来的に日本の主要なエネルギーと位置付けるのであれば、原子燃料サイクルの確立は重要な条件であり、そのためにも最終処分場をどこかに作らなくてはならない。


 だれかの負担が、日本を支える。どこかのだれかが重荷を背負わなければならない。沖縄の基地問題にも見られた構図が、原子力発電にも映し出されている。


 六ヶ所村にもこの構図が当てはめられると、はじめは思っていた。放射性物質を扱っている施設のすぐ近くで暮らすことに伴うリスクが、少なからず存在することは確かだからだ。


 「そりゃあ不安はあるよ。でも、もう日本政府を信じるしかない」。お世話になった民宿の主人はあきらめにも似た言葉をこぼした。好意的ではないにせよ、‘‘再処理施設がある‘‘、という現実を受け入れた人の言葉だったの。


 六ヶ所村と沖縄とは、状況が微妙に異なっているのかもしれない。誰かが負わなければならない負担がある。それが生活の中に存在することを「当たり前」と感じるか「なぜ私たちだけ」と怒るのか、両地域の住民の無意識な認識の違いが、二枚並べられた間違いさがしの絵のように、構図の微妙な差異を生み出しているのだろう。