2008年12月6日土曜日

成長

とりあえず一安心。

思った以上に時間はかかったが、今日でやっと終わる。そういえば教官は今日からが始まりとか言ってたっけ。
まあどちらにせよ3ヶ月間よくがんばった、と自負できるので良し。あと数時間後からはもう日本中に張り巡らされた交通網の上に立てるわけで、そういう意味でいままでとは少し違う立場になったのだろう。

幼い頃、運転席の上でハンドルをにぎりながらふざけていたら、急に車が動きだした。どうすることもできず、怖くてただ頭の中が真っ白になった。
という夢をみたことがあった。
いまはもう車が勝手に動き出しても冷静に対応できる気がする。

大人になったなと実感した。

2008年7月26日土曜日

学生

何かに向かうことは必要なんだ。あたえられた時間のなかで、その時間がおわったときに、自分はこれをやったと胸を張っていえる何かに。
それがスポーツでも、学問でも、仕事でも、遊びでもいい。純粋な感覚をもってそのものと向き合えれば、自分はたしかな時間を生きたといえるはず。

僕はいつからか、ずっと走り続けている。理由はその時々ちがう。体力をつけるためだったり、運動不足を解消するためだったり、駅伝の襷をつなぐために走っこともある。
今も走ることをやめてはいない。特別な目的はないけど時間があれば走る。好きだからではない(もちろん楽しいと思うときもあるが)。欲求や理想とも違う。
ただ、走っている時は走っている時でしかない。呼吸や足を運ぶリズム、筋肉や脳、心臓の疲労感、肌に感じる気温や湿度。じわりとにじみ出る熱をもった汗。ひたすらに感覚的な事実と向き合っている。今の僕にとっては、そういう時間にこそ「生きている」という感覚を持てるのかもしれない。そして、こういう感覚は何年たっても消えないだろう。

いずれは見つけなければいけない。死んでもいいと思えるような何かを。そういうもののために生きるのだから。
矛盾してるが、僕にはまだ将来について悩める時間がある。学生という立場は特別なんだ。だから何かを残したいんだ。いまに。

2008年7月24日木曜日

机から

自分の机に向かうと、いろいろなことが頭の中を交錯し勉強に集中できなくなる。だから普段はあまり使わないのだが、今日は一日中その机にへばりついていた。やはり勉強はあまりはかどらなかったが、窓の外から聞こえてくる蝉やかえるの鳴き声や遠くの道路で車が通り過ぎる音、時計の針や風に吹かれてゆれるカーテンの音が、この暑さと一緒に肌に染み込んできたような気がする。
ここに座りながめる窓の外の景色は、いつも季節を実感させてくれる。いまは夏だ。空は青い。雲は巨大な塊となり、木草は深い色をもつ。そういった季節の目印は過去の夏まで呼びおこす。
去年のいまごろは何をしていただろう、一昨年は、そのまえの年は、そのまたまえのとしは、、、。夏は毎年来る。だけどいつも違う。来年は、再来年は、今年の夏を思い出すだろうか。
そうしてもらえるような夏をすごしたいものだ。


あと一週間、試験が終われば夏休みがはじまる。

2008年7月5日土曜日

遭難

人間が作り上げた生活環境がいかに快適で安全か、これは山や森などの自然界の中に身を置くことでより強く実感できる。例えば山の中を歩く時、地図や標識以外のもので自分の位置を判断し目指す方向に進める人はどれぐらいいるだろうか。人間の入った痕跡の無い所を一人で進み歩くにはかなりの勇気と知恵が必要だ。

見知らぬ土地に入り、目印や歩きやすい道を見つけながら人々が行き来するその歴史が、現在の地図や道となり、僕たち人間の活動域を広げたのだろう。こんなにも暮らしやすい環境があるのも、そういった先人たちの積み上げてきた文化文明があるからなのかもしれない。

人類は経時的だ。

2008年6月24日火曜日

街の雑木林

ついさっき、久しぶりに雑木林の中を歩いた。クヌギやコナラ、ケヤキにエノキ、ミズキ、クロマツ、ヤマザクラといった落葉樹が覆い繁り、心地よい風と木々の揺れる音に、つかの間の昼休みを忘れてしまいそうになった。
今僕が居る場所は山でも村でもなく、世田谷の街の中にある馬事公苑だ。苑内の一角に武蔵野自然林として雑木林が保護されているのだ。
雑木林は昔から人間の手が入ることで形成されてきた森だ。人々は薪炭用の木や肥料にする落ち葉などを採るために雑木林を利用してきたのだ。しかし、経済成長の中で石油を使った機会や化学肥料が農業や林業、山村や農村の暮らしを、雑木林を必要としないものに変えた。

武蔵野といえば昔から農業が盛んで江戸や東京の食を支えてきた。農家はそれぞれの家に屋敷林という雑木林を持ち、生活や農業に利用していた。
きっとその名残が今、僕の目の前にほんの少しだけ残っているのだろう。

つかの間の昼休み。林を見ながらぼーっと、そんなことを考えている。

言語

使う言語によって形作られる文化は違うと思う。
例えば英語と日本語。英語はとても論理的だ。誰がどうした何をどこでなぜならば〜…といった具合に何でもしっかりと言葉に出して表現する。
一方、日本語は曖昧だ。ほとんど主語を言わなくともその場の空気や話の流れで、言わんとすることを察する。物事の言い回しや空気を読むというが求められる。

昨日は久しぶりに非Japanな空気の中に居た。友達のホストシスターが日本に来ていたので、一緒に夕食を食べたりカラオケに行ったりして時間を過ごした。不思議と言葉が違うだけで別の空間(日本ではない場所)に居るような気分になる。 外国語を学ぶことの難しさや面白味はその言語の生み出す空気感にあるはず。

それにしても昨日の特大パフェはうまかった。

2008年6月20日金曜日

歩調

通学で毎日新宿駅を利用している。JR線から小田急線へと乗り換える際、大勢の人々が一斉に車両から降り階段を上がり改札を通っているために、えらい時間が掛かってしまう。人混みの中で自分の目指す方向に足を進めることは簡単ではない。だが最近、やっと進み方のコツが掴めてきた。
方法は簡単、自分が意志を持って強い歩調で進めばいいのだ。人の進む方向を気にかけ、よけながら歩いていてはなかなか思ったように足を運べない。少し強引でも人混みを押し分けるくらいの気持ちで進む必要がある。
おそらく大多数の人がこのようにして朝のラッシュを歩いているのだろう。そして一人一人が意識しない程度にイライラしているのかもしれない。それが集団になると僕は恐ろしい程の殺気を感じる。
その中で身を守るには自分もやはり強く進もうとしなければならない。足を止めればのみ込まれてしまうのだから。

足を動かし進み続けなければならない状況から抜け出そうとしたのだろうか。昨年も3万人を超える人々が自らの命を絶ったと警察庁の統計で明らかになった。10年の間に自殺者30万人…

少しやるせなくなるニュースだ。

2008年6月16日月曜日

微生物

まず自分の体をまもれ。それから他のものをまもるんだ。
今日の大学の講義で壇上の教授が熱弁していた。近頃の大学生に言いたかったことらしいが、講義の流れから説明していくとこういうことだろう。
 もやしもん、という漫画を知っているだろうか?主人公がある日空気中に存在する微生物(菌)たちを見ることができるようになり彼らの声が聞こえ一緒に会話をしていく中で物語が進んでいくというものだ。
無論、僕たち人間の視力では微生物を見ることはできない。空気中には数え切れないほどの菌が漂い誰かが咳きでも使用ものなら大量のウイルスや菌が放出される。そんな光景をが逆に見えるようになってしまったらそれこそまいってしまいそうだ。
だが、普段僕たちは無数の菌やウイルスとともに暮らしているにもかかわらず、風邪や病気に毎日のようにかかっているわけではない。なぜだ。そう、それは僕たちには抵抗力=抵抗性があるからだという。僕たちの体には免疫機能が備わっているため、多少の病原菌が体内に入ったところですぐに病気にかかるということはない。
ではどういった時に風邪をひくかというと、話の流れでいうとそれは抵抗性が弱まっている時だ。規則正しい生活、十分な睡眠、三度の食事、この当たり前に聞こえる三つのことが乱れてしまうとたちまち僕たちの体はウイルスや菌の住処となりうるのだ。

自分はどうだったかな?と振り返ると、、、だいぶ乱れていたように思う。バイトを始めたことが大きいが、そのせいで体調を崩し学校ににまともに出られなくなったりしたら、本末転倒だ。何のためのアルバイトなのか、何のための学業なのか、何のための何なのか、本来の目的を忙しさゆえに見失いそうになる。気をつけよう。見えなくていいのは微生物までだ。

などと今日の講義を聞いて思ったりした。

 

2008年6月11日水曜日

先月からステーキハウスでアルバイトを始めた。早く研修を終え一人前に仕事をしたい一心で、一所懸命料理名を勉強していたのだが、6月に入り、せっかく覚えかけてきていたメニューが新しく変わってしまった。

食糧価格の高騰。ここにも波は来ていたらしい。飲食店のメニューやスーパーに並ぶ食品、今やすっかり僕たちの目に見える範囲に影響が出ている。特に多くの日本食の原料として使われる大豆や、乳牛、肉牛のたべるトウモロコシ、様々な食品に用いられる小麦などの価格高騰は半端な値ではない。

この価格高騰の原因として、投機マネーの流入や新興国からの需要増加、バイオエタノール用の作付面積拡大などが挙げられ、様々な要素が複雑に絡み合っているようだ。

主要な穀物製品の値上がりで逆に注目されつつあるものの一つとして、米がある。小麦が原料のパンの値が上がれば米に消費が傾くという意見もある。各地では米や米粉をつかった新たな食品開発も色々試されているようだ。

さて、日本の食はどうなるのだろうか。いずれにせよ、いつでもどこでもなんでも手に入る、という時代はそろそろ終わりそうだ。日本の食料自給率39%という値にももっと危機感を持った方がいい。

いつ何があるかわからない。今日も帰ったらしっかり夕食を食べよう。

2008年6月1日日曜日

森  

ちょうど去年の今頃僕は森林と林業とを勉強し始めた。漠然と森というものに対して新鮮なイメージを持っていたし、環境問題を見るための一つの視点にもなると思ったからだ。いま、そんな選択をした自分をほめてやりたい。時代は明らかに「環境」を軸とした流れに変わっているからだ。

環境問題を考えるとき、森林が中心的な存在であることに間違いはない。大気中の二酸化炭素増加と地球温暖化。この問題に対する森林役割は大きく、森林がなくてはならない貴重な資源であることはほとんどの人が知っていることだと思いたい。

さて、そうした中自分の身近にある森林を注意して見ると実は大変なことが起きていた。日本の国土の約68%をしめる森林が荒廃しているのだ。なぜか。原因は複合的ではあるのだが、僕が考える一番大きな原因は、人間と森との距離が拡大してしまったことにあると思う。日本の木材や森を利用する文化が廃れ、今まで人間が利用することで成り立っていた雑木林や人工林は本来の姿を保てなくなってしまっている。都市化によって、安くて量的まとまりを持った供給のできる外国産木材が求められ国産材の需要は落ち込む。売れない木を育てる者は減り国内林業は衰退。山村地域を支えてきた産業が無くなり人々は職を求めて村を去り街へ。悪循環。
誰が森を守るのだろう。放置され必要な手入れのされない人工林の姿を。どんより暗く、木々が細々と立ちすくみ、林床には植物がまるで生えていない森は、土砂災害や洪水から僕たちを守る力を持たないのだ。

つい昨日のことだ。そんな日本の森の現状を悲観的に考えていた僕は、ある林業家と出会いすこし考えが変わった。東京都檜原村で森林ワークキャンプに参加し、そこで林業を営む人からこんな言葉を聞いた。「俺が林業を続ける理由は義務感みたいなものだよ」「何のために仕事をするのか考えなきゃだめだ」「自分は幸せだ」 
自分の仕事が好きで誇りを持ち、どうしたらもっと良くなるのか、ということをしっかりと考え行動しているからこそ、言えることなのかもしれない。
今、誰がどういう気持ちで森を守ってくれているのかということ、林業が僕たちの生活環境を守る産業だということを、知りそこから参加していくことが必要なのかもしれない。

「参加型社会」、そういえばこの前大学の授業でそう言ってたな。。。

書いた内容ばらばらや。

2008年5月30日金曜日

股旅

一年前の自分は今日を想像出来ただろうか。何を見て何をしようとしていて何がしたいのか、そういう前に進もうとする意思は今この時だけからしか生まれてこないのかもしれない。その場しのぎに生きていけば行ける所までは行ける。道筋は通っていなくても通していけるものだ。
自分が今いる現在を未来に向けて発信していけたら上出来だ。その練習としてこれを書き始めようと思う。何でもいい。時事や思ったこと、発見をわかりやすく伝わるように残していこうと思う。