2010年10月12日火曜日

OKINAWA×BASE 「本土」













 羽田空港に戻ってきて、JALの飛行機から降り、荷物を拾って、川崎へと向かう京急に乗り込んだ。車内は旅行帰りの人で混みあい、大きなザックを抱えたぼくは身動きをとれなかった。川崎からJR南武線、武蔵溝の口から東急田園都市線を乗り継ぎ下宿のある用賀に着いた。


 この間、誰とも、一言も話すことはなかった。帰り方はわかっているから人に道を尋ねる必要はないし、もの珍しいこともないので特に足を止めることもない。黙々と重い荷物を背負って、何も見ず、何も聞かず、ただ目的地に向かっているだけだった。旅の終わりを感じた。都会の日常に再び立たされた。陰鬱な気分だった。


 「学生」、だからなのかもしれないが、ぼくの日常は閉鎖的だ。毎日、大学という安全な場所(ある程度、自分で自由な時間を過ごせる居心地のいい場所)に通い、友人と話したり、退屈な講義を聴いたり、図書館で本を読んだりしながら気ままに過ごす。休日はアルバイトをしていることがほとんどだ。そこにはそこでの出会いや発見があり、自分の成長を実感することもある。ぼくはずいぶんと長い間、こういう時間や生活を満喫してきた。


 ただどこかで、物足りなさを感じていた。いま、この時間を深く生きているのだろうか、という不安が常に側にあった。ぼくにとってのいまは、ぼくにとってのいまでしかない。自分に見える範囲、自分に聞こえる範囲、自分で考え、悩める範囲にしかぼくの現実は存在していなかった。


 沖縄の旅を通して、その不安に対する答えをつかみつつある気がする。帰りのJALの機内で書いた日記に、ぼくはこう書いている。


 「この旅はたくさんの人に支えられたと思う。計画も立てず、足も持たず、身一つ、思い一つで沖縄に来たからこそ、ぼくは多くの人に頼ったし、頼ることを楽しめた。人間は、人間とのつながりがあれば生きていけるのではないかと思えた。『つながり』。生きるうえで何よりも大切なものかもしれない。人に頼って、人に頼られて、つかずはなれず、持ちつ持たれつ、生きていけばいい。自分だけで全てやろうとしなくていい。他人がいてぼくがいる。ぼくがいて他人がいる。そう思うと少し楽になれる。とにかく、この旅を支えてくれた人々に感謝の気持ちでいっぱいだ」。


 「名護に着き(一度名護を去ったあと東京へ帰る前に再び立ち寄った)、選挙事務所を訪ねた。『お世話になりました』、とあいさつした。『また来てね』と言われた。出会いは財産だ。何も持っていなかったぼくが、いま沖縄につながりをつくれたのだ。この出会いは、宝だと思う」。


 「人とつながること」。多分、このことがいまを深く掘り下げ、現実を自分の日常からさらに広げてくれるのだろう。沖縄へ行き、実際に問現場の空気に触れ、当事者と話し、意識を同調させることができたからこそ、これからも基地問題に関心を持ち続けることができる。閉鎖的な日常からでも、出会った人々に思いを馳せ、何かある度にその時々の当事者の心境や表情を想像しようとするだろう。ぼくのいまは、沖縄のいまとも少しは同調できるようになった。


 最後にもう一度問いたい。


 「これは人間の問題よ。沖縄の問題じゃないの」。


 と語ったおばあの言葉の意味を。


 沖縄の基地は、沖縄に大きな痛みを残している。あばあの言う「加害の意識」もその一つだ。そういった痛みを沖縄の人々が抱えているということを、まずは知ってほしい。想像してほしい。そして、それとどう向き合うべきか考えてほしい。人間の問題。基地があることで、人間の尊厳が脅かされているということにまで意識を巡らせてほしい。


 沖縄には変化のうねりが生れつつある。あきらめかけていたことに、もう一度向き合おうという思いがある。稲嶺市長の誕生や、名護市議選での結果はそれを物語っている。しかし、何度も言うようにこれは沖縄だけの問題ではない。本土で、沖縄のうねりが波となって広がるかどうかが試されている。だからこそ、ぼくは長々とこれを書いてきた。少しでも、沖縄の現実を伝えるために。


 沖縄に関する報道を、ただ受け取るだけでは足りない。それについて何かを考え、自ら勉強して知ることも必要だと思う。知らなければ、何が正しくて何が間違っているのか判断できないからだ。

 重苦しく考えなくてもいい。まずは沖縄について知ることが第一歩だ。ふらっと遊びに行って、現地の人と少し話すだけでもいい。そのくり返しが、沖縄と本土との距離を縮めてくれると思うから。

2010年10月9日土曜日

OKINAWA×BASE 「高江」








 耳慣れないセミの鳴き声が森中から聞こえた。周りの深い亜熱帯の森を割るように味気ないコンクリートの道路が一本だけ目の前に横たわる。道路沿いには作りかけのトタンバリケードがあり、その奥に進むと金網越しに一面アスファルトのひらけた場所がある。大きさはテニスコートの一面程度。ヘリパッド(ヘリコプター離着陸帯)だ。


 米軍北部訓練場は沖縄本島の北部に位置し、7800haもの広大な敷地面積を有する。主にジャングルでの戦闘訓練やサバイバル演習などに使用され、ベトナム戦争時にはゲリラ戦の訓練なども行われていた。実弾やヘリコプターが飛び交うこの危険区域に隣接する小さな集落が、東村高江地区だ。


 高江に来るまでに、またひと手間かかった。名護市議選での街頭立ちを終えたぼくを、選挙事務所の人が車で高江まで送ってくれることになっていた。だが、行く前に、東村の別の地区でチラシ配りを手伝うことになった。東村でも村議会選挙が近づいていたのだ。


 名護から東村まで車で約1時間。車窓からは、浜が多く空が広く見える西海岸沿いと、断崖と青い海が見渡せる東海岸沿い双方の景色を楽しめた。送ってくれた事務所の人から、車内で高江のヘリパッド問題や村議会の話を聞いた。


 高江では、米軍の新ヘリパッド建設を巡り、住民による反対運動が起きている。1995年、米兵による少女暴行事件を機に沖縄県民の反米、反基地感情が高まる中、SACO「Special Actions Committee on Okinawa 沖縄に関する日米特別行動委員会」が設置された(SACOは、県民の「基地の整理縮小」という要求を受けて発足したものの、実際には「基地の尖鋭化と再編強化」の意図があると県民側は感じている)。1996年、そのSACOの決定に日米両政府が合意した「SACO合意」によって、北部訓練場の約半分が返還されることになった。しかし、その条件として返還される部分(国頭村側)にあるヘリパッドを高江に移設するということも決められていた。


 もし高江に新たなヘリパッドが建設されれば、住民の負担が増えるのはもちろんのこと、辺野古、伊江島飛行場、金武町のブルービーチに建設が予定されているヘリパッドを基点に、沖縄本島の北部全体を米軍のヘリコプターやオスプレイ(新型の飛行機、両翼についたプロペラが離着陸時の垂直方向から飛行時の平行方向へと可動する。試験時に事故が多発している不安定な飛行機)が飛び回ることになる。


 この事態に東村としても反対を表明するのかと思いきや、議会はうまく機能していないらしい。ヘリパッド建設反対の立場で立候補し当選した村長は就任と同時に意見を変え容認の立場へ転じた。議員らは議会でほとんど発言もせず座っているだけ。そんな頼りにならない村政を尻目に、住民は建設現場への座り込みなどをして反対運動を続けているという。


 高江の事実を知った後のチラシ配りは、気が重かった。軽自動車で山間の小さな集落を回り、チラシをポストへ入れていった。家に人が居ればあいさつをするが、返ってくる反応に元気はなかった。地域によって、選挙への関心の具合がまちまちであることに気付いた。街に暮らす人の方が、反応を見る限りでは関心が高い。田舎の方では、大きな変化を嫌う気質があるのか、関心はそう高くないように感じた。蒸し暑さの中でのチラシ配りを終え、ようやく高江に着いた。


 座り込みを行っているテントへ行くと、若者が一人、テントの下でイスに腰掛けていた。聞けば東京から来た大学院生とのこと。高江には何度か座り込みに来たことがあるようで、その日もたまたま住民の代わりに見張りをしていたたようだ。高江の座り込みには人手が足りていない。


 後に集落の人が来て詳しく闘争の日々について教えてくれた。ヘリパッド建設工事は2000年から始まった。すぐに住民は作業現場に座り対抗した。ときどき、現場に作業員や防衛局員が来るものの、粘り強い監視と座り込みで工事に大きな進展はなく、状況は落ち着いたかに見えた。


 しかし、2008年、国は「座り込みは工事を妨害している」とし、住民15人を相手に「通行妨害禁止仮処分命令」を那覇地裁に申し立てた。国は住民との話し合いでなく、司法の力を用いて工事を進めようとした。結局、国が裁判所へ提出した書類の内容は、人違い、車両、行為の特定が十分でないなどずさんだったため申し立てはほぼ却下された。が、住民のうち2名には「妨害行為があった」という決定が出された。この2名は「ヘリパッドいらない住民の会」の共同代表に名前があったために、決定に差が出たとされる。


 「自分たちに非がないとわかっていても、訴えられることはショックだ」と、当時の心境を住民の方が話してくれた。精神的にも、体力的にも、金銭的にも住民に負担を与える。そして反対運動をあきらめさせる。国の申し立てにはそのような狙いが透けて見える。


 沖縄の旅の最終日、ぼくは高江の座り込みに参加した。朝8時、昨日知り合った東京の大学院生と一緒にテントを開け、資料を置いて、イスに座る。後から住民の方が一人来て、計3人で座り込む。ただただ座り込む。ほかにやることもない。セミの鳴き声がやたらうるさく脳に響く。その退屈さが苦痛だった。当事者の住民はこれに加えて「本当に中止できるのか」という不安と毎日闘っている。辛いだろうし、悲観的になりかねない状況だ。それでも闘う。雨でも風でも、毎日毎日、座り込む。


 ときどき、車が止まり、県内、県外から来た人も一緒に座り込む。高江が勝つためには、こういった外からの援助も必要だ。住民だけで闘い抜くことは大変だろう。それに、少し前にも言ったが、基地問題は沖縄(当事者)だけの問題ではない。日本人誰もが目を向け、考えるべき問題なのだ。この小さな集落から、大きな問題がぼくたち本土に住む人間に投げかけられていることを、知ってほしい。

OKINAWA×BASE 「名護・市議選」







 「タ、ク、マ、タ、ク、マ、タクマを、よろしくお願いします」。


 軽快な音楽と一緒に、選挙カーから発せられる声が名護の街に響いていた。名護市議選。市民、県民のみならず、日本政府も結果を気にかける重要な選挙。その投票日の3日前にぼくは名護の街にいた。


 辺野古のテント村の人の紹介で、名護市議選候補の方の選挙事務所にお邪魔させてもらった。選挙を少し手伝えば、その事務所の方々が利用している宿に安く泊まれると聞いたからだ。手伝いと言っても、そこへ着いたのは夕方で、その日は何もすることがなかった。退屈そうにイスに座っていたぼくに、事務所の女性(彼女は沖縄の基地問題に関する本を何冊も書いている、元編集者のけっこうすごい人だった、と後に知った)が疲れた表情でぽつりとつぶやいた。「選挙は本当に大変」と。


 今回の市議選は、普天間基地の辺野古への移転に大きく影響する選挙だ。現名護市長の稲嶺進氏、辺野古への普天間代替施設の建設を、明確に拒否している。名護市民にしてみれば(無論、容認派にしてみれば話は別だが)希望の光ともいえる存在だ。現在(ぼくが沖縄に居たとき)、市議会での市長支持派は過半数を割り込んでいる、稲嶺市政を支えるためには、今回の市議選で市長を支持する議員が過半数の議席を確保しなければならない。もし、稲嶺市長支持派が過半数を占めると、代替施設の建設の建設にNOを突きつける気運がより強まることになる。


 それだけ重要な選挙なのだから「大変」だということもわかる。が、その女性の言う大変さは、沖縄の選挙の別の側面を意味していた。


 地縁、血縁、土建屋。この3つのものが沖縄(いや、日本全体にも言えることかもしれない)の選挙を支配しているという。住民にとって投票の基準となるのは、候補者との距離だ。親戚や知人、知人の親戚、親戚の知人、であるかどうか。自分の住む地区、地域の出身であるかどうか、自分の会社に利益をもたらす候補者かどうか。個人の思想や信条とは関係なく、自分と距離の近い候補者に投票することがあたりまえの慣習となっている。そのため外から来た候補者(実はぼくがお世話になった事務所の支える候補者もそういった人の一人)はなかなか勝つことが難しいとされている。


 また、この選挙の風潮は、基地が動かない理由の一つでもある。 先に述べた土建屋は基地があることで儲かる商売だ。新基地の建設や整備を容認する首長や議員たちとつながりを持ち、選挙ともなれば社員総出で投票へ行き、特定の人物へ票を入れるという。そして票を得た首長や議員は、基地関係の補償金を公共事業につぎ込み、土建屋を潤している。互いに結びつくことで簡単には壊れない、利益誘導型の体質を作り上げてきたようだ。最近の名護市長選挙まで、基地反対派の市長候補者が勝てなかったのも、こういった背景が関係しているのかもしれない。


 「古い構造との対決でもあるの」と女性が言うように、名護市議選でもし現市長支持派が過半数の議席を取れば、沖縄に生まれつつある新しいうねりはさらに大きくなるだろう。
翌朝、ぼくは事務所の支援する候補者の名前が入った旗を持ち、通り行く車に手を振りながら、名護の街頭に立っていた。一宿の礼といえここまで手伝わされることになるとは思わなかった。「ぼくはここで何をしているんだろう」と心の中でつぶやきつつ、通行人を眺めていた。すると、なんとなくではあるが、「民意」のようなものを、人々の表情や仕草から見て取ることができた。


 たとえば、手を振ると振り返してくれる人、完璧に無視する人、目を合わせず会釈だけする人、声をかけてきてくれる人、様々な反応がある。その反応をひたすら注視し、全体の総和を分析してみると、民意の雰囲気というか、風当たりのようなものを感じ取ることができる。よく国政選挙の報道で「風が吹く」という表現が使われるが、その風は、人々の小さな反応の集合体のことではないか。一緒に街頭立ちをしていた人も、「始めた頃より反応してくれる人が増えた」と言っていた。市議選は、沖縄の未来に影響を与える。選挙は、それだけの意味を持っている。だからこそ一票に、しっかりとした考えや思いを込めるべきだと思う。名護市議選、見守りたい。

※9月12日に投開票された名護市議選の結果、稲嶺市長を支持する議員が過半数の議席を確保した。波は確実に大きくなりつつある。

OKINAWA×BASE 「辺野古・金武」










 暖かい便座にウォシュレット。薄い青を基調とする壁に大きな鏡。奥行きがあり広々としている。辺野古公民館のトイレの様子だ。建物の外観にも驚いた。小学校の体育館を二つ並べたくらいの大きさで、屋根には橙色の瓦がふんだん葺かれ、立派な屋根つきのエントランスがどんと構えていた。


 宮殿のような公民館にはおそらく、基地関係のお金が流れてきているのだろう。静かで寂れた辺野古の集落とは対照的に、自治体の財政の潤いが垣間見られた。


 辺野古は昔、小さな漁村だった。人々は豊かな自然、海とともに暮らしていた。戦後、キャンプ・シュワブ(米海兵隊の基地)ができてから村の様子は変わり始めた。米兵を相手に商売をしようと多くの人が移り住み小さな街が出現した。通りにはスナックやファストフードの店が立ち並び、基地から遊びに来る米兵たちで賑わった。もともとの漁村と新しい街、辺野古にはこの二面性があった。


 しかし、いまはそのどちらの特色もすっかり褪せていた。海兵隊の訓練海域となり、水陸両用者の演習が行われた海からは魚がほとんどいなくなってしまった、と、地元の住民は嘆く。車両のキャタピラによってサンゴ礁は踏み砕かれ、海の生きものの居場所やエサ場は失われてしまった。魚の獲れなくなった海に船を出しても、借金を作るだけだという。漁港には、使われていない漁船が退屈そうに並んでいた。


 WASHINGTON、TEXAS、NEW YORK。アメリカの地名が描かれた看板はどれも色褪せていた。扉にはCLOSEDの掛札がだらしなく垂れ下がり、人気はない。つぶれたレストランだろうか。このような建物は街のあちらこちらににあった。おそらくもう、商売の街としての時代は終わったのだろう。


 集落の脇を流れる辺野古川を歩いた。エメラルドグリーン。まさにこの言葉通りの色をした透き通る海が目の前に広がった。夏の太陽の陽射しに照らされ、波の穏やかな海面はきらきらと輝いていた。どこまでも歩いて行けそうな浅瀬にたたずみ、しばらくの間その楽園のような光景に目を奪われていた。時折、小魚が足元をすり抜けていった。


 この美しい辺野古の海に目を向けながら座り込みをしている人々がいた。「座り込み」というと、闘争的な印象を受けるが、そこには気品のある方々が座り、和やかに語り合っていて、野暮な雰囲気などまるで感じられなかった。


 少し意外だったのは、座り込みをしている人のなかに辺野古の住民が少なかったことだ。どうやら集落内には複雑な事情があるらしい。基地移設の受け入れに関して、個々の胸中には容認、反対といった思いや考えがある。しかし、それを表立って言うことはない。血縁関係や近所付き合いなどに亀裂を生みかねないからだ。コミュニティーの秩序を穏便に保つためにも、意見の分かれるこの問題に突っ込まないことは、公然の認識となっている。これが、座り込みのテントに集落の人が来ない理由の一つ(そのほか、体力的に毎日は来られないお年寄りが多い)だ。


 ではテントに居るのはどういった人なのか。基地問題に関心、見識、自分なりの思いを持つ普通の人々だ。名護市民もいれば、嘉手納基地に隣接する沖縄市に住む人もいる。那覇から足を運ぶ人、さらには本土から定期的に来る人もいるという。


 ぼくは初めてテントを訪れたとき、「なぜ当事者でもない人がこの問題に関わっているのか」という疑問を抱いた。が、その問いは、沖縄市から毎日座り込みに来ているという、優しくて上品なおばあの一言で消え去った。


 「これは人間の問題よ。沖縄の問題じゃないの」。


 「加害の島」という言葉がある。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガンでの空爆、イラク戦争、大戦後の度重なる戦争で、沖縄は米軍の最前線、または後援基地としての機能を持った。自分たちの島から爆撃に向かう爆撃機が飛び立っていく光景を見て、加害の意識を持ち、心を痛めた人も少なくなかったようだ。軍隊の本質は人を殺すこと。それを間接的に支えている(基地提供や軍需への労働力提供などで)ことで、自分たちは加害者側にいる、という気持ちになってしまうのだろう。


 銃を突きつけられている人の絶望や、爆撃から必死に逃げる人の恐怖を、沖縄の人々は目の前の事実(飛び立つ爆撃機、戦闘機)から容易に想像できてしまう。


 本土に住むぼくたちはどうか。イラクやアフガンで米軍が戦い、その結果多くの命が失われようと、それは新聞やテレビの中だけの出来事でしかない。もし、毎日のように東京の空を爆撃機が通過して行ったら、もし、装甲車や軍用車両が慌ただしく都心の道路を走っていたら、もし戦場行を直前にひかえた兵士が居酒屋で死への覚悟を語っていたら、少しは想像できるだろうか。ぼくたちの日常に、戦場の、戦争のリアルな断片は少しも存在していない。


 たとえ、ぼくたちの税金が戦争を主導する軍隊を支えようと、ぼくたちの政府が日米同盟のもと、その戦争を支持しようと、加害の意識などほとんどないのではないか。あまりに無責任な無関心が、あたりまえに社会を包んでいる。


 ぼくは、基地問題を沖縄の中だけのこととして済ませるべきではないと思う。地元住民だけが必死に抗議運動をしていればいいものではないと思う。負担の不平等、加害への無関心と想像力の欠如。こういった、本土に住むぼくたちの問題が沖縄を苦しめている。ならば、日本人誰もがこの問題に目を向け、首を突っ込み、意見を言い、議論を日本中に広げていいはずだ。「人間の問題」として、皆がしっかり基地や安保、国防へと向き合える空気を生み出すことが、まずは必要だと思う。


 コザと辺野古を足して二で割ったような雰囲気のある町。それが金武だ。沖縄本島の東側、辺野古より少し南に位置するこの小さな町は、キャンプ・ハンセンに隣接している。街路にはやはり、米兵相手に商売をしていそうなバーやスナックが並び、通りを歩く外国人の姿も目立った。辺野古と比べると店や人の数が多く栄えている印象を受けたが、どこか、金武の未来と辺野古現在が重なるような気がした。もう少し時間が経てば、この町も辺野古のようになってしまうのだろうか、と。


 西日が傾き、街は暑さに包まれていた。そんななかで歩き回るのも億劫だったので、冷たいぜんざいが食べられる喫茶店に入った。地元のおばあたちのたまり場となっていた店内には琉球語が飛び交っていた。カウンターに座り、水っぽくて味の薄いぜんざいを口に運びながら、この基地の町の景気について、店の奥さんから話を聞かせてもらった。


 「基地の町」といえど、景気は悪いらしい。通りを歩く米兵の数は減り、店をたたむ人も多いという。なぜ基地の目の前にありながら米兵たちはあまり遊びに来なくなったのか。その直接の原因は、送迎バスだという。基地からは、毎日数本、名護やコザへ向かう送迎バスが出ている。勤務を終えた米兵たちは、そのバスに乗ってより大きな町へ遊びに行く。送迎が始まったころから、金武の通りを歩く人の数が減っていったという。


 基地があるから町は潤う。沖縄を歩いていて、そういった事実を目にすることはなかった。「沖縄は基地なくしてやっていくことができない」、という論理には合理的な疑いを感じた。そうしたらよくなるのか、これを考えるとき、米軍基地はどういう位置づけになるのだろうか。

OKINAWA×BASE 「嘉手納・コザ」









 空気を揺らすような轟音が全身を包んだ。「サンパウロの丘」と呼ばれる赤土の丘の上で、嘉手納基地から飛び立つF-15戦闘機を見た。エンジンを点火し、大きい音を響かせる。期待はほとんど滑走せず、その場からふわっと浮き上がったとように見えた。戦闘機の音や姿を、日々聞いて、見ている暮らしはどのようなものだろうか。想像するだけで重苦しさを感じた。


 嘉手納町の町域の8割以上は軍用地になっている。もともとは北谷村の一部であったが、嘉手納基地によって分断され、行き来ができなくなったために分村し、いまの状態になっている。基地建設の際、住民の土地は奪われ、誰一人としてお参りに来ない墓が基地の敷地内にいまでも残っているという。


 街に活気はなかった。シャッターの閉まった店が目立ち、人通りも少ない。空から聞こえてくる飛行機のエンジン音だけが耳に残った。


 「軍用地料の弊害」について、沖縄の人から話を聞いたことがある。軍用地料とは、米軍基地に使用する土地の持ち主に支払われる賃借料のことだ。地料は自動的に入ってくるお金であり、それだけで食べていける人もいるという。働かなくてお金を得られる、とはどういうことか。軍用地料を受け取っている人はギャンブルやアルコール依存になりやすい傾向がある、という研究データが出ているらしい。お金をめぐって家族内で争いが起きることもある。軍用地収入のある人とない人との間には、基地の見方に温度差があるようだ。


 このことについて教えてくれた人はさらに続ける。「軍用地料はもともとなくて当然のもの。なくなるとやっていけないのは、それに依存しているからだ」。たしかに本来、人は働いて自分の力で収入を得る。これは生きがいにもつながる。街もそうだ。基地で収入を得るよりも、住民たちの知恵や力で産業をつくり、地域主体で街づくりに取り組んだほうが活気も出てくるのではないか、と思った。


 「沖縄は基地収入がないとやっていけない」というわけではなさそうだ。実際に沖縄に落ちるお金のうち基地収入は5%程度。それに、普天間、嘉手納をはじめどの基地の町も景気は悪いし、沖縄の平均時給は全国的にみてもかなり安い。この経済的な現状から基地の負の部分を十分理解できる。ふと、基地は経済的な麻薬のようなものに思えてきた。表面的な効果(立派なハコモノや道路の整備など)はたしかにあるが、副作用(騒音、人や地域の主体性の剥奪、家族やコミュニティーの分断など)も生じる。さらにそれは依存体質を作りやすく、「基地は動かない」という諦めを生むことにまでつながってくるのかもしれない。


 丘の上でF-15戦闘機を眺めながら、そんなことを考えていた。沈んでゆく太陽は、足元の土をさらに赤く染めた。嘉手納町に宿が無かったため、基地を挟んで向こう側に見える街、コザ(現沖縄市)まで歩くことにした。


 フェンス沿いの国道を時計回りに歩く。基地の中の様子がよく見えた。広い滑走路、その周りをジョギングしたり、ロードバイクで駆け抜けたりする米兵の姿、自家用車で街へ出かける人々、基地内の公園でバスケットボールをするちびたち、居住区の家の庭先でBBQを楽しむ家族。フェンスの向こう側はアメリカだった。彼ら、彼女らの普通の生活があった。異なる文化がすぐそばに息づいていた。もしこの鉄のフェンスがなかったら、沖縄はユニークな土地になるだろうな、と、そんな気がした。


 コザは、そんなぼくの予感を体現したような街だった。通り沿いには英語の看板やネオンが輝き、バー、レストラン、ダーツの店が並び、外国人が歩きまわっている一方、泡盛の旗を掲げた居酒屋、三振や沖縄民謡のCDを売る店もあり、まさにMixed cultureな街だった。


 その晩、夕食を食べに小さな食堂(ここのそばは地元で評判らしい)へ行った。店の前まで来て、ドアノブに手をかけて一瞬たじろいだ。ドアの向こうから超高音で熱唱される沖縄民謡が聞こえてきたからだ。腹をくくって中へ入る。そこには別世界が広がっていた。雰囲気は食堂というよりスナック。古びたL字のカウンターに色あせた木の壁。窓際には趣味の悪い花が並んでいた。


 カウンターに座ると斜め前に座っていた(ぼくはL字の角に座った)おばあが何か話かけてきた、が、まるで聞き取れない。どうやら何を食べるの?と聞いているようだったので「そば」、とだけ答えた。琉球語。いまもまだこんなにもくせのある喋り方をする人がいるのか、と感心した。遅れて登場したママさんも、後から来たお客さんも、皆くせのある琉球語で話し、歌っていた。琉球の深部に潜り込んだような気分になった。


 ここではもう一つ、沖縄の断片に触れた。基地に関することだ。


 本音と建て前。沖縄の人の中には、基地問題に関してこの二つが存在する。と、たまたま隣に座ったおじいが話してくれた。誰もが人前では基地反対という。本気でそう思っている、部分もある。が、揺れている。基地で働く人、その家族や親類。本音では、容認とまで言わないが絶対反対だとも言えない。そういう人は少なくないという。


 いろいろな立場、考え方、価値観がある。そういったものを、小声でなく大声で、堂々と語り、議論できる土壌が沖縄にはまだない、と感じた。

OKINAWA×BASE 「普天間」








 嘉数の高台。ここからは普天間の住宅地、そしてそこに寝そべるようにして堂々と広がる米軍普天間基地が一望できる。天気は雨。眼下の町も、基地も、静かな雨に包まれ、物音一つ聞こえてこなかった。


 嘉数の高台からは海岸も見通すことができる。その地理・地形的な条件から、太平洋戦争末期の沖縄戦では米軍の進行を妨げる堅固な砦として使われ、この高台を巡って激戦が繰り広げられたという。日露戦争でいう、二〇三高地のような場所だ。高台には多くの碑が立てられ、鎮魂の想いが刻まれていた。古びた堡塁跡もひっそりと残されていた。


 沖縄には、こういった慰霊碑、堡塁跡、がま(天然の洞窟、戦争中、多くの人が身を隠していた場所。いわゆる集団強制死なども起きた)などが所々にあり、悲惨な地上戦の傷を今に残している。嘉数の高台もその内の一つ。そしてその場所から見える景色は、いまも沖縄を苦しめる基地問題という深い傷を、訪れた人々に投げかけている。その風景を目に焼き付け、旅を始めた。普天間基地の大きさを身で持って実感しよう。そう思い立ち周囲の道路を半周歩いてみることにした。雨はまだ止まない。傘を差し、とぼとぼと歩き始めた。高台のある、基地の南に位置する真栄原という町から反時計回りに歩き、基地の北にある普天間の町を目指した。
途中、基地に隣接する佐真下公園に立ち寄った。公園の目の前には基地を囲むフェンスがあった。中の様子は木で遮られ見られなかった。近くの東屋で地元のおじいが小さな宴を楽しんでいた。軽く会釈して通り過ぎようとすると、手招きされ「まあ座れ」、と一言。

 沖縄初日の昼間から泡盛を飲まされることとなった。「みんな仲良く楽しく飲めばそれでいいさ」。誰とでも仲良く、という沖縄のめんそーれ精神に触れられた。
 

「沖縄にどんなイメージを持っている?」、と突然聞かれた。「温かくてのんびりと・・・」とあいまいに答えると、「現実は違うさ」とおじいは語気を強めた。のどかな島の風景は失われ、コンクリートの建物が窮屈に乱立する。どの街も景気は悪く、所得も低い。空にはいつも飛行機やヘリコプターの音が鳴り響く。「これが沖縄の現実さ」。切ない表情でこう教えてくれた。


 本土のぼくたちが持つ沖縄のイメージは、どうも不都合な部分を捉えていないような気がする。基地の負担を強いている以上、その現実を理解することは、本土に暮らすぼくたちの責任ではないだろうか。


 公園を後にし、基地沿いの国道を歩く。薄暗い雨雲の切れ目から、茜色をした夕暮れの空を覗けた。雨は弱まりつつあった。


 国道はやけに騒がしかった。というのも、1週間後、ここ宜野湾市や名護市、沖縄市などの市議会議員選挙があるため、選挙カーが街を行き交い、鶯嬢の甲高い声が候補者の名前を連呼したからだ。ひたすら名前だけを繰り返すそのアナウンスに違和感を覚えた(後にぼくは沖縄の選挙に触れ、この理由を知ることになる)。車の中から笑顔で手を振られる度に、会釈を返しつつ歩を進めた。2004年8月、普天間基地に隣接する沖縄国際大学の敷地内に米軍ヘリコプターが墜落した。当時のニュース映像で見た、校舎の壁が真っ黒に変色した現場の様子は今でも印象に残っている。その事故の調査は米軍が取り仕切り、日本の警察は事故について何も調べることができなかった。日本には、日本人の介入できない場所がまだある。


 沖縄国際大学の前を通りかかった。校舎は真新しく建て替えられ、事故の名残などまるで見られなかった。しかし、周辺には学生や住民が歩き、レストランや居酒屋が並び、国道から横道に入れば住宅街がある。基地と隣り合わせの日常は、確かに存在する。


 翌日、基地の北側の普天間の街を見て、そこから残りの半周を歩き通した。住宅の塀から基地のフェンスまでの距離はわずか5mほど。狭い路地が入り組み、家々は肩をすぼめるように密集していた。大きな通りには弁当屋、小路にはスナックが並んでいた。


 結局、普天間周辺でぼくの頭上を飛行機やヘリコプターが飛ぶことはなかった。静かな街だという印象さえ受けた。だが、どこか陰鬱な空気が漂っていた。不気味な静寂が、フェンスの向こうから伝わってきた。

OKINAWA×BASE 「基地問題と旅」





 「これは人間の問題よ。沖縄の問題じゃないの」。

 遠くを見るような目で辺野古の海を眺めながら、おばあは静かに語った。

 「人間の問題」。ぼくはいまもその意味を問うている。

 この夏の終わりに、沖縄へ行った。理由は一つ。在日米軍基地を見たかったからだ。政権が交代し、普天間基地の移転問題が一時期大きく報道で取り上げられていた。ぼくは新聞の報道、社説、論説、コラム、投稿欄で毎日のように扱われていたこの問題に触れる度に、関心を強めていった。あるとき、友人と沖縄の基地について話していると、ふとある考えが浮かんだ。この問題の本質は、「不平等」ではないかと。
 

 世界の平和はバランスで成り立っているように思う。経済的な、そして軍事的なパワーバランスが、現実に存在する。核兵器、軍艦、戦闘機、ミサイル、兵士、それぞれの数や威力が他国の脅威になり、それらに対抗するため、また新たな軍備が整えられる。「お前が撃ったら撃ち返すぞ」、と言わんばかりに、心理的に互いを抑止し合っている(このために何百兆円ものお金が必要らしい)。
 

 東アジアでは、たとえば北朝鮮がミサイルを日本に向けて配備しているとする。日本が気に食わなければすぐにでも発射できるが、いまのところ思いとどまっている。日本をいじめると、その親分の米国が黙っていないからだ。極端な例だが、これが抑止力でありバランスなのだ。
 

 日米同盟、日米安保は、日本が世界のパワーバランスの中で生き残るためにも重要、と政府は考えているらしい。そして、国内に米軍を駐留させておくことで、安全保障を成り立たせている。
 

 ここで沖縄に話が戻る。「国の安全保障」という、全ての日本国民が享受する利益がある。無論、タダではない。基地負担という代償を払わなければならない。そのうちの75%を払ってくれている(どちらかというと押し付けている)のが、沖縄なのだ。
 

 と、いうようなことが、一連の報道をたどりわかってきた。同時に負い目のようなものを感じた。沖縄の人々の負担の上に、ぼくの日常がある。そう思うと、居ても立っても居られなくなった。この問題に無関心でいてはいけない、という思いが生まれた。
 この思いと、那覇行の航空券と、多少のお金と着替えを背負って、ぼくは沖縄へと向かった。