2010年9月15日水曜日

上から下へ Ⅱ





2日目、旅は苦行と化す。

眠気で朦朧とする意識。闇夜に浮かぶ無数のヘッドライトの明かりに付き従い、登山者で渋滞する道をゆっくり進み続けた。振り返ると、富士吉田や山中湖村の夜景が輝いていた。健脚ガイドの先導のおかげで日の出前に富士山のピーク、剣ヶ峰に到着。東の空は、真っ赤な炎に琥珀をかざしたような色の、力強い光を放っていた。



ここから、正式に旅が始まる。日本の最高点から海へ、垂直に進む道のりだ。剣ヶ峰を降りてすぐ影富士を目にした。信州の山々に堂々とかぶさったその姿は迫力に満ちていた。そこからの見晴は抜群で、遥か先の、愛知県渥美半島の先端まで望むことができた。列島を見渡せる山、富士山の魅力だ。
山頂から6合目までの下りで、足の疲労が一気にたまった。急な斜面、石のごろつく足下り坂だった。6合目を過ぎ樹林帯に入った。同時に、安心感に包まれた。周囲に歩行者が居なくなったことで、自分のペースで歩けるようになった解放感と、柔らかい土の上を歩ける心地よさとが、心に平穏を与えてくれた。
が、ここからが本当の試練だった。傾斜は緩くなったものの、歩けども歩けども終わりの見えない登山道が続いた。美しい森林を眺めながら歩く余裕もなく、がたがたする足でつまずかないよう足元に注意しながら歩き続けた。常に気を張って歩かなければならない登山道に疲れ果てていた。なにも気にせず、無意識のまま歩けるアスファルトの道路が恋しくなった。





1合目を過ぎ、ようやく舗装された道路に出た。4人横に並んで歩ける道だ。傾斜も緩く進みやすい。しかし、足の疲れはそんな道にさえ嫌悪感を抱くほど意識を支配していた。砂と汗にまみれべとつく体。歯垢に変化する一歩手前の食べカスが残る不快な口内環境。水道から出てくる無限の水ですべてを洗い流したい思いに駆られた。歩いて歩いて歩いて、歌って演じてまた歩いて、右手側にきれいな芝生の公園が現れた。そして園内にぽつんとたたずむ木の下に、水飲み場がひとつ見えた。まっすぐにそこへと駆け出し、水を浴び、飲み、芝生の上に大の字で寝ころんだ。肌をなでる風、木の葉の揺れる音が疲れた体に染み込んできた。公園から富士山頂が展望できた。ここまで降りて来られたことが信じられなかった。




少し歩くと浅間神社に着いた。立派な杉の並ぶ参道を通り鳥居を逆からくぐっていく。山頂から降りてきた自分たちが神聖なものに清められたような気分だった。この日の山は越えた。
富士吉田の街を食べ物求めてさまよった。どこの食堂も閉まっていたので国道を4キロほど山中湖方面に進んだところにある今日の宿泊地、山中湖オートキャンプ場を目指すことになった。途中立ち寄ったコンビニで牛乳を買い、一気に飲み干した。牛乳の養分をすぐに体が吸収してくれたような気がして、体が少し軽くなった。


キャンプ場の近くの温泉へ行った。湯に浸かりながら、夕暮れ時の青黒い空に浮かぶ富士山を見ることができた。湯から上がり、施設内にあった食堂で夕食を食べた。まともな食事は出発の日以来。白い米やみそ汁のおいしさを純粋に感じられた。エネルギー不足だったので口に入れたものは体がすぐに吸収した。食べたものが血肉に変わる、ということを実感できた。

上から下へ Ⅰ






富士山山頂から歩いて伊豆湯河原の海を目指す。そんなことをやってみた。

男4人、4日間歩き通した旅。ざっと行程を説明する。
 
1日目:朝8時、新宿駅に集合。高速バスを使って富士山5合目(吉田ルート)へ。登山開始。8合目途中の山小屋に宿泊。

2日目:深夜2時、山小屋を出発。5時過ぎの日の出を山頂で眺める。旅の始まり。徒歩で1合目まで下り、富士吉田の浅間神社前を通る国道に出る。国道沿いのキャンプ場に宿泊。

3日目:朝5時半、キャンプ場を出発。国道を歩く。山中湖畔、別荘地を抜け、篭坂峠を下る。自衛隊演習場を横目に御殿場市街地へと入っていく。乙女峠を越え、箱根仙石原へ。ゴルフ場の間を抜けるサイクリングロードを歩き芦ノ湖へ。湖を半周し、元箱根の宿に宿泊。

4日目:朝9時、宿を発ち箱根町から湯河原へと続く道路、椿ラインを歩き続ける。午後4時、湯河原温泉に到着。日の沈む頃、海へダイブ。





 1日目、新宿駅に集合した頃が懐かしく感じられる。本当に歩けるのかという不安を抱きつつ、頭のどこかではこの旅を楽観していた。この日は富士山5合目から8合目までと、歩いた距離は4日間の中で最も短く、着くべくして着いた、と言える。苦になったのは眠気と他の登山者くらいなものだった。




 眠気は前日からの睡眠不足に加え、富士山の無難な登山ルートを単調なリズムで進むことでさらに増加した。ふらふらしながら歩を進める自分の姿がなんとも情けなかった。富士山には登山者が多い。行列になってツアーで登ってくる人々をはじめ、若者、家族連れ、カップル、年配の方、とにかく人という人が登山道を埋め尽くしていた。登山をしているのに都会の駅の階段を上っているような感覚すら覚えた。下を向いて歩くには、辛い山だった。ただ、振り向けば雲海や八ヶ岳、アルプスといった景色が広がり、眺めに飽きることはなかった。就寝前、山小屋から見た空の色の鮮やかさが忘れられない。橙、紺碧、緑、空はたくさんの色があることを知った。

2010年8月11日水曜日

実習




 3日間、山の中へ隔離されていた。実習のために。

 林業に使われている機械の操作手順を教えてもらったり、作業道(林道の一種。小型の林業機械が通れる程度の砂利道。木材を運び出すために、日本の林業では欠かせないもの)の設計に必要な地形データを測量したりした。初日はと中日を通して地形の測量を実践した。方位磁石と望遠鏡を合体させたような”コンパス”と呼ばれる機械を用いて、作業道を通す予定の径路をいくつかの点で区切り、その区切りごとの点にコンパスを置き、傾斜や距離を測っていった。
 ここで難しいと感じたのは、その「コンパスを定位置に置く」こと。急な斜面、狭い足場、ぬかるむ斜面。悪条件可でコンパスのついた三脚を立てることは困難だった。どの程度三脚を広げ、また狭めればコンパスを定位置に設置できるのか。この調整がなかなかうまくいかない。てこずるぼくを見かねた先生は、三脚を手に取ると数秒で設置した。

 正確な数値が求められる測量ではあるが、そこには慣れや経験といった感覚的な技術が必要だということを知った。あたり前のことだが、傾斜やぬかるみ、足場の範囲を掴む感覚は、それなりの経験を積まないと磨いていけるものではない。専門性のある仕事は、マニュアルを見ても簡単にまねできないものばかりなのだろうな。 

 実習を経験したからといって、実際に機械を扱えるようになったわけでもないし、しっかりとした測量技術が身についたわけでもない。実習はあくまで体験であって、訓練ではない。体験では、技術を身につけることは後回し。実際の作業の難しさやうまくできないもどかしさなどから垣間見れた、リアルな作業の感覚を、学びの土台にすることが大切なのだ。

 ぼくの足の裏に残った、斜面やぬかるみを踏んでいるときの感覚は、林業の本質を語る素材のひとつになったと思う。

目標

 「いい供養になりました。ありがとうございます」。


 炎天下の神宮球場。高校野球の熱戦に、義弟の遺影とともに声援を送っていた男性を取材した。原稿が紙面に載った翌日、記事を読んだその男性からお礼の電話をいただいた。私の記事を読んで、何かを感じた人がいた。新聞記者という仕事の魅力に触れた経験だった。
 
 自分が着目し、取材した事実を記事にして、読者に伝える。記者体験を通して、この過程がとても大切だということを実感した。
 
 「社会には、埋もれている事実がまだまだある」。社会部記者の言葉が印象に残っている。社会に埋もれた問題や人の声に耳を傾け、掘り起こし、人々に伝えていけるような記者を目指したい。この7日間で、新聞記者になりたいという漠然とした思いは、明確な目標へと変わった。

2010年7月31日土曜日

安堵


やっと安堵感のようなものが感じられるようになった。

この5日間、「働く」とはどういうことかを考えていた。が、この問いは結局、「生きていく」とはどういうことか、ということを考えない限りは辿り着けない答えだった。

”だった”と言えるのは、ある程度考えた末、確信とまではいかないが自信を持てる答えを導きだせた
(少なくともいまぼくはこの答えで納得できている)からだ。

ぼくは自分の命や生活をまっとうできる生きかたができればいいと思っている。

いままでは「夢」や「使命」といった言葉に思考を縛りつけられていたのかもしれない。人間は(ぼくを含めた一部だけかもしれないが)生きることに目標や目的というある種の道しるべみたいなものがなければ、安心して前に進むことができないものだと思っていた。何か目指すものがなければ、漠然とした日々に埋もれて自分が何者なのかわからなくなってしまうものかとも思っていた。

実際、ぼくは大学生活という自由な時間、空間を手にしてから、自分のやるべきことが何かわからなくなっていた。自信をもって「ぼくはこれをやればいい」と言えるものがどれなのか選びとることができなかった。だから、「信念を持って一貫した何かに打ち込む」ような熱を帯びることがなかった。

新聞記者になりたいという気持ちはあったが、それは心の底から湧きあがってくるようなものではなく、ぼくの考え、理屈のうえでなるべきだと決めつけていた部分が多かれ少なかれあった。自分を未来へと引っ張ってくれる目標が欲しかった、故にそう決めつけたのかもしれない。

そうやって無理やりに自分を前へ前へと押し進めようとしていたから、押し進めたその先がわからなかったのだ。

いつか夢について誰かと話したとき、その誰かが「夢は状態だ」と言っていた。達成するものが目標であるなら夢はその先にある自分の状態やそれを取り巻く環境を指す、という意味だったのだろう。

その通りだと思う。

「夢」は叶えて終わる一過性のものではない。自分(もしくはそれ以外の対象)を取り巻く包括的な状態であり、そうありたいと願う生きかたそのもののはずだ。

たとえば、「新聞記者になりたい」というのは夢ではなく目標だ。大切なのは、新聞記者になってあなたはどう生きたいのか、という問いに答えることだ。

その問いに答えてみる。

新聞記者という仕事をこの5日間経験してみて、ぼくはこの仕事を続けてもいいと思った。これは少し前まで考えていたような「この仕事以外道はない!絶対にこれがいい!」と高らかに掲げられる気持ちとは質が異なる感情だ。

ぼくは高校野球のスタンド雑観を書いた。本当ならばそのスタンドで応援しているはずだった人の人生の一部を、ほんの少しだけの短い記事にした。それが紙面に載り、翌日、親族の方からお礼の電話をいただいた。
いい供養になった、と。

ぼくの書いた記事が、会ったこともない誰かに感謝された。

さまざまな人の戦争体験を、朗読で伝え続けている人がいる。その人の朗読会の紹介文を書いた。まだ紙面に載るかどうかわからないが、もしぼくの書いたその記事を読んだ誰かが、朗読会に足を運び、戦争の事実や悲惨さを知り平和について考えることができたら、

それは意味のある仕事だと思う。

新聞記者はそういう可能性をもった仕事だ。誰かに何かのきっかけを与えたり、誰かに何かしらの感情を与えたりすることのできる仕事だ。

そういう役割をもった一人の人間として、ぼくは生きていきたい。

あとは、自分にとって大切だと思える人やものに囲まれて生活できればいい。

愛する人、愉快で信頼できる仲間、走ること、食べること、眠ること、考えること、読書、音楽、映画、冒険、挑戦、競争、季節、自然、芸術、真っ白なノート、肌の温もり、古いアルバム、野心、真心、好奇心、茶、珈琲、ウイスキー、畳、エクステリアルウッド、ビーチサンダル、短パン、暖炉、こたつ、せんぷう機、蚊取り線香の匂い、風鈴の音、セミの鳴き声。なんでもいい。

生活をまっとうする。命をまっとうする。そういう生きかたは自分の意識の中だけでは完結できない。だから、自分を取り囲むもの、手が届き触れられるものを、尊重し大切にしていきたい。


「夢」や「使命」はもうちょっと先にとっておいていい。無理に探すものではなくて、外から与えられるものだと思うから。

とは言っても、結局やるべきことや目指すべきものはいままでと変わらない。

このまま進めばいいという安堵感だけ、ようやく手に入れられた。

だから、自分の選んだ未来へ、自信を持って歩いていけばいい。

いまはそれで十分だ。

2010年7月28日水曜日

神宮

すっかり両腕が赤くなった。しかも半袖焼け。

第92回高校野球、西東京大会と東東京大会の取材のため、暑い夏の日差しが容赦なく照りつける神宮球場のスタンドを2日間歩き回った。

スタンド雑観、という神宮の応援スタンドの雰囲気を伝える記事を任された。

雑観に必要なものは、その情景を伝える切り口と物語だということに、必死で歩いた末気づいた。

甲子園出場まであと一勝、という試合を観戦者がどんな思いで、どんな視点で観ているのか。その裏のドラマを発見し伝える。言葉だけ聞くと単純だが、注意深く観察する力、話を引き出す力、その内容からドラマを紡ぎだしつつさらに足りない部分を聞き出す力、取材には粘り強さだけでなく器用に人の話を聞くことが大切だと感じた。そして、これをもっと詰めたら面白い話になりそうだ、と閃けるニュースセンスも求められる。

東東京大会決勝は修徳と関東一。ぼくは修徳側のスタンドを担当し修徳側の思いにたくさん触れたせいか、修徳をいつのまにか応援していた。

だからサヨナラ負けは悔しかった。泣き崩れる選手をみて心がいたんだ。野球に全力をかけていた青年たちがまぶしかった。こんなふうに取材対象へ同調することで書ける記事もあるのだろうと思う。

足を動かして、頭を使って、と記者はなかなか忙しい。

2010年7月13日火曜日

ねじれ





参院選。

再び国会は「ねじれ」た。

7月11日に参院選が行われ、政権・与党民主党は勝敗ラインに定めた54議席を大きく下回る44議席しか獲得できず大敗を喫した。
一方、最大野党自民党は51議席を獲得し改選第1党となった。注目を集めたのは11議席を獲得し躍進したみんなの党。
国会のキャスティングボートを握る存在となった。

参院での与党勢力は過半数を割りこみ、国会は衆院と参院で与野党勢力が逆転する「ねじれ」に。

この状態だけは避けたい。そんな思いで民主に一票を投じたものの、逆風にかき消されてしまったらしい。

昨夏の本格的な政権交代を経て民主党政権が誕生し10ヶ月。
自民の古い政治体質を壊し、新しい政治のうねりを生み出そうと意気揚々に発進した新政権への期待は大きかった。
鳩山政権は、どうも現実離れしているとしか言えないような政権公約を実行しようと躍起になり、
早急な審議や強行採決など手荒な国会運営が目立った。

菅首相に代わり急回復した支持率も、消費税論議を争点に持ち出してからというもの下がり続けてきた。
たしかに財政再建は重要だと思うが、他の問題はどこへ行ってしまったのか。普天間、無駄遣い、公務員制度改革、
「増税の前にやるべきことがある」というみんなの党の主張はまさに民意を捉えていた。

これだけ言うように、いくら民主がだらしないとしても、その尻を叩いてしばらくは働かせるべきだと思っていた。
時代にあった政治のできる政権を育てる、という見方もあっていい。「成果が見えないからすぐ変える」というのは
ほどほどにしておくべきではないか。

と、考えていたものの、蓋を開けてみればこういう見方は少数派だった。

とにかく「ねじれ」によって国会の機能が停滞するようなことはあってはならない。
ここからが大事。福田、麻生政権の二の舞になってはいけない。民主は、連立なり政策ごとの連携なりを他党に呼びかけ、
議論する国会になるよう努力してほしい。

意見の異なる者同士が議論し合い、本当に大切なことを見失うことなく、合意形成を目指す。
どこまでなら妥協できてどこからは譲れないのか、その線を死力を尽くして探りつつ意見をぶつけ合う。

頑固一徹に自分の主張を叫ぶだけではものごとは進まない。

法案査定がしっかりできるという「ねじれ」の良い面も発揮しつつ、確実な国会運営を望む。