2010年10月9日土曜日

OKINAWA×BASE 「嘉手納・コザ」









 空気を揺らすような轟音が全身を包んだ。「サンパウロの丘」と呼ばれる赤土の丘の上で、嘉手納基地から飛び立つF-15戦闘機を見た。エンジンを点火し、大きい音を響かせる。期待はほとんど滑走せず、その場からふわっと浮き上がったとように見えた。戦闘機の音や姿を、日々聞いて、見ている暮らしはどのようなものだろうか。想像するだけで重苦しさを感じた。


 嘉手納町の町域の8割以上は軍用地になっている。もともとは北谷村の一部であったが、嘉手納基地によって分断され、行き来ができなくなったために分村し、いまの状態になっている。基地建設の際、住民の土地は奪われ、誰一人としてお参りに来ない墓が基地の敷地内にいまでも残っているという。


 街に活気はなかった。シャッターの閉まった店が目立ち、人通りも少ない。空から聞こえてくる飛行機のエンジン音だけが耳に残った。


 「軍用地料の弊害」について、沖縄の人から話を聞いたことがある。軍用地料とは、米軍基地に使用する土地の持ち主に支払われる賃借料のことだ。地料は自動的に入ってくるお金であり、それだけで食べていける人もいるという。働かなくてお金を得られる、とはどういうことか。軍用地料を受け取っている人はギャンブルやアルコール依存になりやすい傾向がある、という研究データが出ているらしい。お金をめぐって家族内で争いが起きることもある。軍用地収入のある人とない人との間には、基地の見方に温度差があるようだ。


 このことについて教えてくれた人はさらに続ける。「軍用地料はもともとなくて当然のもの。なくなるとやっていけないのは、それに依存しているからだ」。たしかに本来、人は働いて自分の力で収入を得る。これは生きがいにもつながる。街もそうだ。基地で収入を得るよりも、住民たちの知恵や力で産業をつくり、地域主体で街づくりに取り組んだほうが活気も出てくるのではないか、と思った。


 「沖縄は基地収入がないとやっていけない」というわけではなさそうだ。実際に沖縄に落ちるお金のうち基地収入は5%程度。それに、普天間、嘉手納をはじめどの基地の町も景気は悪いし、沖縄の平均時給は全国的にみてもかなり安い。この経済的な現状から基地の負の部分を十分理解できる。ふと、基地は経済的な麻薬のようなものに思えてきた。表面的な効果(立派なハコモノや道路の整備など)はたしかにあるが、副作用(騒音、人や地域の主体性の剥奪、家族やコミュニティーの分断など)も生じる。さらにそれは依存体質を作りやすく、「基地は動かない」という諦めを生むことにまでつながってくるのかもしれない。


 丘の上でF-15戦闘機を眺めながら、そんなことを考えていた。沈んでゆく太陽は、足元の土をさらに赤く染めた。嘉手納町に宿が無かったため、基地を挟んで向こう側に見える街、コザ(現沖縄市)まで歩くことにした。


 フェンス沿いの国道を時計回りに歩く。基地の中の様子がよく見えた。広い滑走路、その周りをジョギングしたり、ロードバイクで駆け抜けたりする米兵の姿、自家用車で街へ出かける人々、基地内の公園でバスケットボールをするちびたち、居住区の家の庭先でBBQを楽しむ家族。フェンスの向こう側はアメリカだった。彼ら、彼女らの普通の生活があった。異なる文化がすぐそばに息づいていた。もしこの鉄のフェンスがなかったら、沖縄はユニークな土地になるだろうな、と、そんな気がした。


 コザは、そんなぼくの予感を体現したような街だった。通り沿いには英語の看板やネオンが輝き、バー、レストラン、ダーツの店が並び、外国人が歩きまわっている一方、泡盛の旗を掲げた居酒屋、三振や沖縄民謡のCDを売る店もあり、まさにMixed cultureな街だった。


 その晩、夕食を食べに小さな食堂(ここのそばは地元で評判らしい)へ行った。店の前まで来て、ドアノブに手をかけて一瞬たじろいだ。ドアの向こうから超高音で熱唱される沖縄民謡が聞こえてきたからだ。腹をくくって中へ入る。そこには別世界が広がっていた。雰囲気は食堂というよりスナック。古びたL字のカウンターに色あせた木の壁。窓際には趣味の悪い花が並んでいた。


 カウンターに座ると斜め前に座っていた(ぼくはL字の角に座った)おばあが何か話かけてきた、が、まるで聞き取れない。どうやら何を食べるの?と聞いているようだったので「そば」、とだけ答えた。琉球語。いまもまだこんなにもくせのある喋り方をする人がいるのか、と感心した。遅れて登場したママさんも、後から来たお客さんも、皆くせのある琉球語で話し、歌っていた。琉球の深部に潜り込んだような気分になった。


 ここではもう一つ、沖縄の断片に触れた。基地に関することだ。


 本音と建て前。沖縄の人の中には、基地問題に関してこの二つが存在する。と、たまたま隣に座ったおじいが話してくれた。誰もが人前では基地反対という。本気でそう思っている、部分もある。が、揺れている。基地で働く人、その家族や親類。本音では、容認とまで言わないが絶対反対だとも言えない。そういう人は少なくないという。


 いろいろな立場、考え方、価値観がある。そういったものを、小声でなく大声で、堂々と語り、議論できる土壌が沖縄にはまだない、と感じた。

OKINAWA×BASE 「普天間」








 嘉数の高台。ここからは普天間の住宅地、そしてそこに寝そべるようにして堂々と広がる米軍普天間基地が一望できる。天気は雨。眼下の町も、基地も、静かな雨に包まれ、物音一つ聞こえてこなかった。


 嘉数の高台からは海岸も見通すことができる。その地理・地形的な条件から、太平洋戦争末期の沖縄戦では米軍の進行を妨げる堅固な砦として使われ、この高台を巡って激戦が繰り広げられたという。日露戦争でいう、二〇三高地のような場所だ。高台には多くの碑が立てられ、鎮魂の想いが刻まれていた。古びた堡塁跡もひっそりと残されていた。


 沖縄には、こういった慰霊碑、堡塁跡、がま(天然の洞窟、戦争中、多くの人が身を隠していた場所。いわゆる集団強制死なども起きた)などが所々にあり、悲惨な地上戦の傷を今に残している。嘉数の高台もその内の一つ。そしてその場所から見える景色は、いまも沖縄を苦しめる基地問題という深い傷を、訪れた人々に投げかけている。その風景を目に焼き付け、旅を始めた。普天間基地の大きさを身で持って実感しよう。そう思い立ち周囲の道路を半周歩いてみることにした。雨はまだ止まない。傘を差し、とぼとぼと歩き始めた。高台のある、基地の南に位置する真栄原という町から反時計回りに歩き、基地の北にある普天間の町を目指した。
途中、基地に隣接する佐真下公園に立ち寄った。公園の目の前には基地を囲むフェンスがあった。中の様子は木で遮られ見られなかった。近くの東屋で地元のおじいが小さな宴を楽しんでいた。軽く会釈して通り過ぎようとすると、手招きされ「まあ座れ」、と一言。

 沖縄初日の昼間から泡盛を飲まされることとなった。「みんな仲良く楽しく飲めばそれでいいさ」。誰とでも仲良く、という沖縄のめんそーれ精神に触れられた。
 

「沖縄にどんなイメージを持っている?」、と突然聞かれた。「温かくてのんびりと・・・」とあいまいに答えると、「現実は違うさ」とおじいは語気を強めた。のどかな島の風景は失われ、コンクリートの建物が窮屈に乱立する。どの街も景気は悪く、所得も低い。空にはいつも飛行機やヘリコプターの音が鳴り響く。「これが沖縄の現実さ」。切ない表情でこう教えてくれた。


 本土のぼくたちが持つ沖縄のイメージは、どうも不都合な部分を捉えていないような気がする。基地の負担を強いている以上、その現実を理解することは、本土に暮らすぼくたちの責任ではないだろうか。


 公園を後にし、基地沿いの国道を歩く。薄暗い雨雲の切れ目から、茜色をした夕暮れの空を覗けた。雨は弱まりつつあった。


 国道はやけに騒がしかった。というのも、1週間後、ここ宜野湾市や名護市、沖縄市などの市議会議員選挙があるため、選挙カーが街を行き交い、鶯嬢の甲高い声が候補者の名前を連呼したからだ。ひたすら名前だけを繰り返すそのアナウンスに違和感を覚えた(後にぼくは沖縄の選挙に触れ、この理由を知ることになる)。車の中から笑顔で手を振られる度に、会釈を返しつつ歩を進めた。2004年8月、普天間基地に隣接する沖縄国際大学の敷地内に米軍ヘリコプターが墜落した。当時のニュース映像で見た、校舎の壁が真っ黒に変色した現場の様子は今でも印象に残っている。その事故の調査は米軍が取り仕切り、日本の警察は事故について何も調べることができなかった。日本には、日本人の介入できない場所がまだある。


 沖縄国際大学の前を通りかかった。校舎は真新しく建て替えられ、事故の名残などまるで見られなかった。しかし、周辺には学生や住民が歩き、レストランや居酒屋が並び、国道から横道に入れば住宅街がある。基地と隣り合わせの日常は、確かに存在する。


 翌日、基地の北側の普天間の街を見て、そこから残りの半周を歩き通した。住宅の塀から基地のフェンスまでの距離はわずか5mほど。狭い路地が入り組み、家々は肩をすぼめるように密集していた。大きな通りには弁当屋、小路にはスナックが並んでいた。


 結局、普天間周辺でぼくの頭上を飛行機やヘリコプターが飛ぶことはなかった。静かな街だという印象さえ受けた。だが、どこか陰鬱な空気が漂っていた。不気味な静寂が、フェンスの向こうから伝わってきた。

OKINAWA×BASE 「基地問題と旅」





 「これは人間の問題よ。沖縄の問題じゃないの」。

 遠くを見るような目で辺野古の海を眺めながら、おばあは静かに語った。

 「人間の問題」。ぼくはいまもその意味を問うている。

 この夏の終わりに、沖縄へ行った。理由は一つ。在日米軍基地を見たかったからだ。政権が交代し、普天間基地の移転問題が一時期大きく報道で取り上げられていた。ぼくは新聞の報道、社説、論説、コラム、投稿欄で毎日のように扱われていたこの問題に触れる度に、関心を強めていった。あるとき、友人と沖縄の基地について話していると、ふとある考えが浮かんだ。この問題の本質は、「不平等」ではないかと。
 

 世界の平和はバランスで成り立っているように思う。経済的な、そして軍事的なパワーバランスが、現実に存在する。核兵器、軍艦、戦闘機、ミサイル、兵士、それぞれの数や威力が他国の脅威になり、それらに対抗するため、また新たな軍備が整えられる。「お前が撃ったら撃ち返すぞ」、と言わんばかりに、心理的に互いを抑止し合っている(このために何百兆円ものお金が必要らしい)。
 

 東アジアでは、たとえば北朝鮮がミサイルを日本に向けて配備しているとする。日本が気に食わなければすぐにでも発射できるが、いまのところ思いとどまっている。日本をいじめると、その親分の米国が黙っていないからだ。極端な例だが、これが抑止力でありバランスなのだ。
 

 日米同盟、日米安保は、日本が世界のパワーバランスの中で生き残るためにも重要、と政府は考えているらしい。そして、国内に米軍を駐留させておくことで、安全保障を成り立たせている。
 

 ここで沖縄に話が戻る。「国の安全保障」という、全ての日本国民が享受する利益がある。無論、タダではない。基地負担という代償を払わなければならない。そのうちの75%を払ってくれている(どちらかというと押し付けている)のが、沖縄なのだ。
 

 と、いうようなことが、一連の報道をたどりわかってきた。同時に負い目のようなものを感じた。沖縄の人々の負担の上に、ぼくの日常がある。そう思うと、居ても立っても居られなくなった。この問題に無関心でいてはいけない、という思いが生まれた。
 この思いと、那覇行の航空券と、多少のお金と着替えを背負って、ぼくは沖縄へと向かった。

2010年9月15日水曜日

上から下へ Ⅳ


 

 4日目、最後の苦行が待ち受けていた。


 ゆっくりと体を休め、遅めの朝9時に宿を発った。元箱根から箱根町までゆっくりと歩き、湯河原へと向かう峠越えの道路に入る前に休憩をとった。芦ノ湖畔にある小さなソフトクリーム屋さん。すだれのかかる日陰で休ませてもらった。涼しい風が通り抜けていた。道路の名は椿ライン。所々道沿いに椿が生えていた。峠までの上りは3日目の乙女峠ほどきつく感じなかった。峠にあったレストランで長めの休憩をとり下りへ臨んだ。
悪夢に出てきそうな延々と続く下り坂だった。やはり歩道はなく、遠くから聞こえてくる車の音に注意を払いながら進んだ。これまでの疲れがたまった体は、終わりの見えないこの道に嫌気がさしているようだった。何よりも精神的にバテそうになっていた。早く終わってほしいという思いだけが足を動かしていた。この椿ラインの下り坂では、4人それぞれが、ばらばらと歩を進めながら、自分自身と孤独に戦っていたのかもしれない。


 湯河原に降り立ったとき、旅の終わりを感じた。海まで残り7キロほど。川に沿って歩道をゆっくりと歩いた。話をする余裕もあった。この旅はなんだったのかと考えていた。




 この旅はなんだったのか。1日何十キロも歩き、足を痛め、苦行の果てに何かを得たのだろうか。これはぼくの中で1つの遊びだった。純粋な感覚・感情を求めた遊びだった。いつからか、腹の底から笑ったり、本心から遊びを楽しんだりすることができなくなっていた。理性や思考が、常に感覚や感情を抑えていた。現実の忙しさや、義務や、見栄によって、自分の本心と向き合うことを忘れさせられていた。いつも建前や合理的な考えだけで生活していた。



 純粋な感覚・感情=リアル、だと思う。おいしいものをおいしい、眠いときは眠い、おもしろいことはおもしろいと、素直に自分の感覚や感情を100%受け入れる。そしてそれを楽しむ。それが今を深く生きる方法なのかもしれない。



 この旅は、辛さのほうが大きかった。一方で、その辛さの向こうに純粋な感覚や感情は確かに存在した。疲れ果てた体で湯に浸かる瞬間、空腹のときに食べるご飯の味、暗闇から見えた明りの眩しさ、眠い体を布団に埋める心地よさ、常に仲間がいる安心感。 



 海で泳ぐことは好きではなかった。体はべとべとするし、髪はごわごわになる。クラゲに刺されることも。ではなぜ湯河原の海岸であんなにはしゃげたのだろう。もしかしたらこの旅で、何かを取り戻せたのかもしれない。


上から下へ Ⅲ




 3日目、苦行は続いた。

 眠い目をこすりながらキャンプ場を出発した。山中湖に反射する眩しい朝日を浴びながら、湖畔を歩き別荘地へと進んだ。静かな森の中の緩やかな登り坂を30分ばかり歩くとすぐに峠に出た。ここから国道を下っていった。太陽はどんどん空高く上がっていき、遮るもののない道を容赦なく照りつけた。暑さは、体力を奪っていった。言葉数も減り、黙々と歩く。





 国道沿いの看板は宿や食事処までの距離を示していた。3キロ、10キロ、17キロ。どれも車にむけたメッセージだ。猛暑の中、車で移動できる道をわざわざ歩いて移動している者はどれくらいいるのだろう。世の中は、電車や車や飛行機のスピードに合わせて動いている。移動時間が短縮された分、忙しなく生きることが当り前になった。世の中のスピードと人間の生きるペースは、本当にかみ合っているのだろうか。歩くことが移動手段という前提で「じゃあ、8時間後、学校に集合ね」、なんて言う人は今の日本にはいないだろう。それくらいゆっくりとした時の流れの中で生きられたら、幸せなのかもしれない。

 御殿場市街はさらに暑かった。

 疲れた果ての昼食は、日の当たるアスファルトの上で食べたコンビニのパン。力がまるで出ない。市街を境に緩やかな下りは上りへと変わり、暑さで弱ったまま箱根の前に立ちはだかる乙女峠に臨んだ。数十センチ横を大型トラックやバイクがびゅんびゅんと走り去っていく。歩道のない国道を歩くことは、車にひいてくださいくださいと言っているようなものだった。時計の針は午後2時を回っていた。最も暑い時間帯に最もきつい上りの道を歩いていた。汗が背負ったザックにまで染みていく。誰もが黙々と歩いていた。喋る体力もなく、後ろから響いてくる車の音におびえながら、重い足を引きずりのろのろと歩いた。峠の茶屋が目に入った瞬間、陰鬱な心の影がすっと消えていった。

 茶屋で一休みしてから峠のトンネルへと入っていった。ここにも歩道はなく命がけの歩行となった。ヘッドライトを後ろに向け、車が来る度に壁にへばりつきながら必死でライトを振って存在をアピールした。恐怖を感じつつも、トンネル内のスリルを心のどこかで楽しんでいた。

 暗がりを抜けるといよいよ箱根。

 国道から外れ、仙石原の高級別荘地に迷い込んだ。休暇を楽しんでいたマダムたちに芦ノ湖へ抜ける道を教えてもらい、ゴルフ場の真ん中を通るサイクリングロードを進んだ。誰もいない道。4人並んで歩ける道だ。自然の静けさに呑まれないように、誰もが陽気に振舞っていた。歩かなければ、進まなければ抜け出せない、孤独な環境に対抗しようと。






 芦ノ湖へ出た。

 すでに日は暮れていた。宿のある元箱根まで芦ノ湖を半周しなければならない。受け入れたくない現実だった。すぐにでも涼しい明るい部屋に柔らかい布団を敷いて寝ころびたかった。が、進まなければ抜け出せない。歩かなければこの現実を変えることはできない。そういう状況だった。黒い闇に包まれた県道に足を踏み出した。4人1列になり、後ろから来る車に気をつけつつ、突如現れるとも知れない獣に注意を払いながら進んだ。いつまでこの暗い道が続くかわからない恐怖、途中で足が止まってしまわないかという不安、宿のチェックインに間に合うかどうかという焦り。そういったものを払しょくしようと意味もわからぬ声を出し続けた。人間は、人間の作った環境の外では極端に弱くなる。街が恋しかった。





「虹の郷」は元箱根の山の中にあった。一生忘れられない宿だったかもしれない。

 玄関に入るとスリッパが4つ並べてあった。客とはいえ、誰かが待っていてくれたということを知って、いままで歩き続けた孤独から解放されたような気持になった。出迎えてくれた奥さんに一通り宿の説明を受けて部屋へ入った。畳の広い部屋が2つ。冷房がきいていた。畳に横になって心から安堵した。今日を乗り切れたと。すぐに風呂に入った。湯から上がると、宿の主人が車で近くのコンビニまで送ってくれた。疲労と空腹の身に、その優しさが染みた。コンビニで大量の食糧を大人買いし、部屋に戻って食べた。同時に眠気が襲ってきた。空腹のときに食べられる。眠いとき横になれる。そんな単純なことが幸せに感じられた。

上から下へ Ⅱ





2日目、旅は苦行と化す。

眠気で朦朧とする意識。闇夜に浮かぶ無数のヘッドライトの明かりに付き従い、登山者で渋滞する道をゆっくり進み続けた。振り返ると、富士吉田や山中湖村の夜景が輝いていた。健脚ガイドの先導のおかげで日の出前に富士山のピーク、剣ヶ峰に到着。東の空は、真っ赤な炎に琥珀をかざしたような色の、力強い光を放っていた。



ここから、正式に旅が始まる。日本の最高点から海へ、垂直に進む道のりだ。剣ヶ峰を降りてすぐ影富士を目にした。信州の山々に堂々とかぶさったその姿は迫力に満ちていた。そこからの見晴は抜群で、遥か先の、愛知県渥美半島の先端まで望むことができた。列島を見渡せる山、富士山の魅力だ。
山頂から6合目までの下りで、足の疲労が一気にたまった。急な斜面、石のごろつく足下り坂だった。6合目を過ぎ樹林帯に入った。同時に、安心感に包まれた。周囲に歩行者が居なくなったことで、自分のペースで歩けるようになった解放感と、柔らかい土の上を歩ける心地よさとが、心に平穏を与えてくれた。
が、ここからが本当の試練だった。傾斜は緩くなったものの、歩けども歩けども終わりの見えない登山道が続いた。美しい森林を眺めながら歩く余裕もなく、がたがたする足でつまずかないよう足元に注意しながら歩き続けた。常に気を張って歩かなければならない登山道に疲れ果てていた。なにも気にせず、無意識のまま歩けるアスファルトの道路が恋しくなった。





1合目を過ぎ、ようやく舗装された道路に出た。4人横に並んで歩ける道だ。傾斜も緩く進みやすい。しかし、足の疲れはそんな道にさえ嫌悪感を抱くほど意識を支配していた。砂と汗にまみれべとつく体。歯垢に変化する一歩手前の食べカスが残る不快な口内環境。水道から出てくる無限の水ですべてを洗い流したい思いに駆られた。歩いて歩いて歩いて、歌って演じてまた歩いて、右手側にきれいな芝生の公園が現れた。そして園内にぽつんとたたずむ木の下に、水飲み場がひとつ見えた。まっすぐにそこへと駆け出し、水を浴び、飲み、芝生の上に大の字で寝ころんだ。肌をなでる風、木の葉の揺れる音が疲れた体に染み込んできた。公園から富士山頂が展望できた。ここまで降りて来られたことが信じられなかった。




少し歩くと浅間神社に着いた。立派な杉の並ぶ参道を通り鳥居を逆からくぐっていく。山頂から降りてきた自分たちが神聖なものに清められたような気分だった。この日の山は越えた。
富士吉田の街を食べ物求めてさまよった。どこの食堂も閉まっていたので国道を4キロほど山中湖方面に進んだところにある今日の宿泊地、山中湖オートキャンプ場を目指すことになった。途中立ち寄ったコンビニで牛乳を買い、一気に飲み干した。牛乳の養分をすぐに体が吸収してくれたような気がして、体が少し軽くなった。


キャンプ場の近くの温泉へ行った。湯に浸かりながら、夕暮れ時の青黒い空に浮かぶ富士山を見ることができた。湯から上がり、施設内にあった食堂で夕食を食べた。まともな食事は出発の日以来。白い米やみそ汁のおいしさを純粋に感じられた。エネルギー不足だったので口に入れたものは体がすぐに吸収した。食べたものが血肉に変わる、ということを実感できた。

上から下へ Ⅰ






富士山山頂から歩いて伊豆湯河原の海を目指す。そんなことをやってみた。

男4人、4日間歩き通した旅。ざっと行程を説明する。
 
1日目:朝8時、新宿駅に集合。高速バスを使って富士山5合目(吉田ルート)へ。登山開始。8合目途中の山小屋に宿泊。

2日目:深夜2時、山小屋を出発。5時過ぎの日の出を山頂で眺める。旅の始まり。徒歩で1合目まで下り、富士吉田の浅間神社前を通る国道に出る。国道沿いのキャンプ場に宿泊。

3日目:朝5時半、キャンプ場を出発。国道を歩く。山中湖畔、別荘地を抜け、篭坂峠を下る。自衛隊演習場を横目に御殿場市街地へと入っていく。乙女峠を越え、箱根仙石原へ。ゴルフ場の間を抜けるサイクリングロードを歩き芦ノ湖へ。湖を半周し、元箱根の宿に宿泊。

4日目:朝9時、宿を発ち箱根町から湯河原へと続く道路、椿ラインを歩き続ける。午後4時、湯河原温泉に到着。日の沈む頃、海へダイブ。





 1日目、新宿駅に集合した頃が懐かしく感じられる。本当に歩けるのかという不安を抱きつつ、頭のどこかではこの旅を楽観していた。この日は富士山5合目から8合目までと、歩いた距離は4日間の中で最も短く、着くべくして着いた、と言える。苦になったのは眠気と他の登山者くらいなものだった。




 眠気は前日からの睡眠不足に加え、富士山の無難な登山ルートを単調なリズムで進むことでさらに増加した。ふらふらしながら歩を進める自分の姿がなんとも情けなかった。富士山には登山者が多い。行列になってツアーで登ってくる人々をはじめ、若者、家族連れ、カップル、年配の方、とにかく人という人が登山道を埋め尽くしていた。登山をしているのに都会の駅の階段を上っているような感覚すら覚えた。下を向いて歩くには、辛い山だった。ただ、振り向けば雲海や八ヶ岳、アルプスといった景色が広がり、眺めに飽きることはなかった。就寝前、山小屋から見た空の色の鮮やかさが忘れられない。橙、紺碧、緑、空はたくさんの色があることを知った。