2010年10月9日土曜日

OKINAWA×BASE 「基地問題と旅」





 「これは人間の問題よ。沖縄の問題じゃないの」。

 遠くを見るような目で辺野古の海を眺めながら、おばあは静かに語った。

 「人間の問題」。ぼくはいまもその意味を問うている。

 この夏の終わりに、沖縄へ行った。理由は一つ。在日米軍基地を見たかったからだ。政権が交代し、普天間基地の移転問題が一時期大きく報道で取り上げられていた。ぼくは新聞の報道、社説、論説、コラム、投稿欄で毎日のように扱われていたこの問題に触れる度に、関心を強めていった。あるとき、友人と沖縄の基地について話していると、ふとある考えが浮かんだ。この問題の本質は、「不平等」ではないかと。
 

 世界の平和はバランスで成り立っているように思う。経済的な、そして軍事的なパワーバランスが、現実に存在する。核兵器、軍艦、戦闘機、ミサイル、兵士、それぞれの数や威力が他国の脅威になり、それらに対抗するため、また新たな軍備が整えられる。「お前が撃ったら撃ち返すぞ」、と言わんばかりに、心理的に互いを抑止し合っている(このために何百兆円ものお金が必要らしい)。
 

 東アジアでは、たとえば北朝鮮がミサイルを日本に向けて配備しているとする。日本が気に食わなければすぐにでも発射できるが、いまのところ思いとどまっている。日本をいじめると、その親分の米国が黙っていないからだ。極端な例だが、これが抑止力でありバランスなのだ。
 

 日米同盟、日米安保は、日本が世界のパワーバランスの中で生き残るためにも重要、と政府は考えているらしい。そして、国内に米軍を駐留させておくことで、安全保障を成り立たせている。
 

 ここで沖縄に話が戻る。「国の安全保障」という、全ての日本国民が享受する利益がある。無論、タダではない。基地負担という代償を払わなければならない。そのうちの75%を払ってくれている(どちらかというと押し付けている)のが、沖縄なのだ。
 

 と、いうようなことが、一連の報道をたどりわかってきた。同時に負い目のようなものを感じた。沖縄の人々の負担の上に、ぼくの日常がある。そう思うと、居ても立っても居られなくなった。この問題に無関心でいてはいけない、という思いが生まれた。
 この思いと、那覇行の航空券と、多少のお金と着替えを背負って、ぼくは沖縄へと向かった。

2010年9月15日水曜日

上から下へ Ⅳ


 

 4日目、最後の苦行が待ち受けていた。


 ゆっくりと体を休め、遅めの朝9時に宿を発った。元箱根から箱根町までゆっくりと歩き、湯河原へと向かう峠越えの道路に入る前に休憩をとった。芦ノ湖畔にある小さなソフトクリーム屋さん。すだれのかかる日陰で休ませてもらった。涼しい風が通り抜けていた。道路の名は椿ライン。所々道沿いに椿が生えていた。峠までの上りは3日目の乙女峠ほどきつく感じなかった。峠にあったレストランで長めの休憩をとり下りへ臨んだ。
悪夢に出てきそうな延々と続く下り坂だった。やはり歩道はなく、遠くから聞こえてくる車の音に注意を払いながら進んだ。これまでの疲れがたまった体は、終わりの見えないこの道に嫌気がさしているようだった。何よりも精神的にバテそうになっていた。早く終わってほしいという思いだけが足を動かしていた。この椿ラインの下り坂では、4人それぞれが、ばらばらと歩を進めながら、自分自身と孤独に戦っていたのかもしれない。


 湯河原に降り立ったとき、旅の終わりを感じた。海まで残り7キロほど。川に沿って歩道をゆっくりと歩いた。話をする余裕もあった。この旅はなんだったのかと考えていた。




 この旅はなんだったのか。1日何十キロも歩き、足を痛め、苦行の果てに何かを得たのだろうか。これはぼくの中で1つの遊びだった。純粋な感覚・感情を求めた遊びだった。いつからか、腹の底から笑ったり、本心から遊びを楽しんだりすることができなくなっていた。理性や思考が、常に感覚や感情を抑えていた。現実の忙しさや、義務や、見栄によって、自分の本心と向き合うことを忘れさせられていた。いつも建前や合理的な考えだけで生活していた。



 純粋な感覚・感情=リアル、だと思う。おいしいものをおいしい、眠いときは眠い、おもしろいことはおもしろいと、素直に自分の感覚や感情を100%受け入れる。そしてそれを楽しむ。それが今を深く生きる方法なのかもしれない。



 この旅は、辛さのほうが大きかった。一方で、その辛さの向こうに純粋な感覚や感情は確かに存在した。疲れ果てた体で湯に浸かる瞬間、空腹のときに食べるご飯の味、暗闇から見えた明りの眩しさ、眠い体を布団に埋める心地よさ、常に仲間がいる安心感。 



 海で泳ぐことは好きではなかった。体はべとべとするし、髪はごわごわになる。クラゲに刺されることも。ではなぜ湯河原の海岸であんなにはしゃげたのだろう。もしかしたらこの旅で、何かを取り戻せたのかもしれない。


上から下へ Ⅲ




 3日目、苦行は続いた。

 眠い目をこすりながらキャンプ場を出発した。山中湖に反射する眩しい朝日を浴びながら、湖畔を歩き別荘地へと進んだ。静かな森の中の緩やかな登り坂を30分ばかり歩くとすぐに峠に出た。ここから国道を下っていった。太陽はどんどん空高く上がっていき、遮るもののない道を容赦なく照りつけた。暑さは、体力を奪っていった。言葉数も減り、黙々と歩く。





 国道沿いの看板は宿や食事処までの距離を示していた。3キロ、10キロ、17キロ。どれも車にむけたメッセージだ。猛暑の中、車で移動できる道をわざわざ歩いて移動している者はどれくらいいるのだろう。世の中は、電車や車や飛行機のスピードに合わせて動いている。移動時間が短縮された分、忙しなく生きることが当り前になった。世の中のスピードと人間の生きるペースは、本当にかみ合っているのだろうか。歩くことが移動手段という前提で「じゃあ、8時間後、学校に集合ね」、なんて言う人は今の日本にはいないだろう。それくらいゆっくりとした時の流れの中で生きられたら、幸せなのかもしれない。

 御殿場市街はさらに暑かった。

 疲れた果ての昼食は、日の当たるアスファルトの上で食べたコンビニのパン。力がまるで出ない。市街を境に緩やかな下りは上りへと変わり、暑さで弱ったまま箱根の前に立ちはだかる乙女峠に臨んだ。数十センチ横を大型トラックやバイクがびゅんびゅんと走り去っていく。歩道のない国道を歩くことは、車にひいてくださいくださいと言っているようなものだった。時計の針は午後2時を回っていた。最も暑い時間帯に最もきつい上りの道を歩いていた。汗が背負ったザックにまで染みていく。誰もが黙々と歩いていた。喋る体力もなく、後ろから響いてくる車の音におびえながら、重い足を引きずりのろのろと歩いた。峠の茶屋が目に入った瞬間、陰鬱な心の影がすっと消えていった。

 茶屋で一休みしてから峠のトンネルへと入っていった。ここにも歩道はなく命がけの歩行となった。ヘッドライトを後ろに向け、車が来る度に壁にへばりつきながら必死でライトを振って存在をアピールした。恐怖を感じつつも、トンネル内のスリルを心のどこかで楽しんでいた。

 暗がりを抜けるといよいよ箱根。

 国道から外れ、仙石原の高級別荘地に迷い込んだ。休暇を楽しんでいたマダムたちに芦ノ湖へ抜ける道を教えてもらい、ゴルフ場の真ん中を通るサイクリングロードを進んだ。誰もいない道。4人並んで歩ける道だ。自然の静けさに呑まれないように、誰もが陽気に振舞っていた。歩かなければ、進まなければ抜け出せない、孤独な環境に対抗しようと。






 芦ノ湖へ出た。

 すでに日は暮れていた。宿のある元箱根まで芦ノ湖を半周しなければならない。受け入れたくない現実だった。すぐにでも涼しい明るい部屋に柔らかい布団を敷いて寝ころびたかった。が、進まなければ抜け出せない。歩かなければこの現実を変えることはできない。そういう状況だった。黒い闇に包まれた県道に足を踏み出した。4人1列になり、後ろから来る車に気をつけつつ、突如現れるとも知れない獣に注意を払いながら進んだ。いつまでこの暗い道が続くかわからない恐怖、途中で足が止まってしまわないかという不安、宿のチェックインに間に合うかどうかという焦り。そういったものを払しょくしようと意味もわからぬ声を出し続けた。人間は、人間の作った環境の外では極端に弱くなる。街が恋しかった。





「虹の郷」は元箱根の山の中にあった。一生忘れられない宿だったかもしれない。

 玄関に入るとスリッパが4つ並べてあった。客とはいえ、誰かが待っていてくれたということを知って、いままで歩き続けた孤独から解放されたような気持になった。出迎えてくれた奥さんに一通り宿の説明を受けて部屋へ入った。畳の広い部屋が2つ。冷房がきいていた。畳に横になって心から安堵した。今日を乗り切れたと。すぐに風呂に入った。湯から上がると、宿の主人が車で近くのコンビニまで送ってくれた。疲労と空腹の身に、その優しさが染みた。コンビニで大量の食糧を大人買いし、部屋に戻って食べた。同時に眠気が襲ってきた。空腹のときに食べられる。眠いとき横になれる。そんな単純なことが幸せに感じられた。

上から下へ Ⅱ





2日目、旅は苦行と化す。

眠気で朦朧とする意識。闇夜に浮かぶ無数のヘッドライトの明かりに付き従い、登山者で渋滞する道をゆっくり進み続けた。振り返ると、富士吉田や山中湖村の夜景が輝いていた。健脚ガイドの先導のおかげで日の出前に富士山のピーク、剣ヶ峰に到着。東の空は、真っ赤な炎に琥珀をかざしたような色の、力強い光を放っていた。



ここから、正式に旅が始まる。日本の最高点から海へ、垂直に進む道のりだ。剣ヶ峰を降りてすぐ影富士を目にした。信州の山々に堂々とかぶさったその姿は迫力に満ちていた。そこからの見晴は抜群で、遥か先の、愛知県渥美半島の先端まで望むことができた。列島を見渡せる山、富士山の魅力だ。
山頂から6合目までの下りで、足の疲労が一気にたまった。急な斜面、石のごろつく足下り坂だった。6合目を過ぎ樹林帯に入った。同時に、安心感に包まれた。周囲に歩行者が居なくなったことで、自分のペースで歩けるようになった解放感と、柔らかい土の上を歩ける心地よさとが、心に平穏を与えてくれた。
が、ここからが本当の試練だった。傾斜は緩くなったものの、歩けども歩けども終わりの見えない登山道が続いた。美しい森林を眺めながら歩く余裕もなく、がたがたする足でつまずかないよう足元に注意しながら歩き続けた。常に気を張って歩かなければならない登山道に疲れ果てていた。なにも気にせず、無意識のまま歩けるアスファルトの道路が恋しくなった。





1合目を過ぎ、ようやく舗装された道路に出た。4人横に並んで歩ける道だ。傾斜も緩く進みやすい。しかし、足の疲れはそんな道にさえ嫌悪感を抱くほど意識を支配していた。砂と汗にまみれべとつく体。歯垢に変化する一歩手前の食べカスが残る不快な口内環境。水道から出てくる無限の水ですべてを洗い流したい思いに駆られた。歩いて歩いて歩いて、歌って演じてまた歩いて、右手側にきれいな芝生の公園が現れた。そして園内にぽつんとたたずむ木の下に、水飲み場がひとつ見えた。まっすぐにそこへと駆け出し、水を浴び、飲み、芝生の上に大の字で寝ころんだ。肌をなでる風、木の葉の揺れる音が疲れた体に染み込んできた。公園から富士山頂が展望できた。ここまで降りて来られたことが信じられなかった。




少し歩くと浅間神社に着いた。立派な杉の並ぶ参道を通り鳥居を逆からくぐっていく。山頂から降りてきた自分たちが神聖なものに清められたような気分だった。この日の山は越えた。
富士吉田の街を食べ物求めてさまよった。どこの食堂も閉まっていたので国道を4キロほど山中湖方面に進んだところにある今日の宿泊地、山中湖オートキャンプ場を目指すことになった。途中立ち寄ったコンビニで牛乳を買い、一気に飲み干した。牛乳の養分をすぐに体が吸収してくれたような気がして、体が少し軽くなった。


キャンプ場の近くの温泉へ行った。湯に浸かりながら、夕暮れ時の青黒い空に浮かぶ富士山を見ることができた。湯から上がり、施設内にあった食堂で夕食を食べた。まともな食事は出発の日以来。白い米やみそ汁のおいしさを純粋に感じられた。エネルギー不足だったので口に入れたものは体がすぐに吸収した。食べたものが血肉に変わる、ということを実感できた。

上から下へ Ⅰ






富士山山頂から歩いて伊豆湯河原の海を目指す。そんなことをやってみた。

男4人、4日間歩き通した旅。ざっと行程を説明する。
 
1日目:朝8時、新宿駅に集合。高速バスを使って富士山5合目(吉田ルート)へ。登山開始。8合目途中の山小屋に宿泊。

2日目:深夜2時、山小屋を出発。5時過ぎの日の出を山頂で眺める。旅の始まり。徒歩で1合目まで下り、富士吉田の浅間神社前を通る国道に出る。国道沿いのキャンプ場に宿泊。

3日目:朝5時半、キャンプ場を出発。国道を歩く。山中湖畔、別荘地を抜け、篭坂峠を下る。自衛隊演習場を横目に御殿場市街地へと入っていく。乙女峠を越え、箱根仙石原へ。ゴルフ場の間を抜けるサイクリングロードを歩き芦ノ湖へ。湖を半周し、元箱根の宿に宿泊。

4日目:朝9時、宿を発ち箱根町から湯河原へと続く道路、椿ラインを歩き続ける。午後4時、湯河原温泉に到着。日の沈む頃、海へダイブ。





 1日目、新宿駅に集合した頃が懐かしく感じられる。本当に歩けるのかという不安を抱きつつ、頭のどこかではこの旅を楽観していた。この日は富士山5合目から8合目までと、歩いた距離は4日間の中で最も短く、着くべくして着いた、と言える。苦になったのは眠気と他の登山者くらいなものだった。




 眠気は前日からの睡眠不足に加え、富士山の無難な登山ルートを単調なリズムで進むことでさらに増加した。ふらふらしながら歩を進める自分の姿がなんとも情けなかった。富士山には登山者が多い。行列になってツアーで登ってくる人々をはじめ、若者、家族連れ、カップル、年配の方、とにかく人という人が登山道を埋め尽くしていた。登山をしているのに都会の駅の階段を上っているような感覚すら覚えた。下を向いて歩くには、辛い山だった。ただ、振り向けば雲海や八ヶ岳、アルプスといった景色が広がり、眺めに飽きることはなかった。就寝前、山小屋から見た空の色の鮮やかさが忘れられない。橙、紺碧、緑、空はたくさんの色があることを知った。

2010年8月11日水曜日

実習




 3日間、山の中へ隔離されていた。実習のために。

 林業に使われている機械の操作手順を教えてもらったり、作業道(林道の一種。小型の林業機械が通れる程度の砂利道。木材を運び出すために、日本の林業では欠かせないもの)の設計に必要な地形データを測量したりした。初日はと中日を通して地形の測量を実践した。方位磁石と望遠鏡を合体させたような”コンパス”と呼ばれる機械を用いて、作業道を通す予定の径路をいくつかの点で区切り、その区切りごとの点にコンパスを置き、傾斜や距離を測っていった。
 ここで難しいと感じたのは、その「コンパスを定位置に置く」こと。急な斜面、狭い足場、ぬかるむ斜面。悪条件可でコンパスのついた三脚を立てることは困難だった。どの程度三脚を広げ、また狭めればコンパスを定位置に設置できるのか。この調整がなかなかうまくいかない。てこずるぼくを見かねた先生は、三脚を手に取ると数秒で設置した。

 正確な数値が求められる測量ではあるが、そこには慣れや経験といった感覚的な技術が必要だということを知った。あたり前のことだが、傾斜やぬかるみ、足場の範囲を掴む感覚は、それなりの経験を積まないと磨いていけるものではない。専門性のある仕事は、マニュアルを見ても簡単にまねできないものばかりなのだろうな。 

 実習を経験したからといって、実際に機械を扱えるようになったわけでもないし、しっかりとした測量技術が身についたわけでもない。実習はあくまで体験であって、訓練ではない。体験では、技術を身につけることは後回し。実際の作業の難しさやうまくできないもどかしさなどから垣間見れた、リアルな作業の感覚を、学びの土台にすることが大切なのだ。

 ぼくの足の裏に残った、斜面やぬかるみを踏んでいるときの感覚は、林業の本質を語る素材のひとつになったと思う。

目標

 「いい供養になりました。ありがとうございます」。


 炎天下の神宮球場。高校野球の熱戦に、義弟の遺影とともに声援を送っていた男性を取材した。原稿が紙面に載った翌日、記事を読んだその男性からお礼の電話をいただいた。私の記事を読んで、何かを感じた人がいた。新聞記者という仕事の魅力に触れた経験だった。
 
 自分が着目し、取材した事実を記事にして、読者に伝える。記者体験を通して、この過程がとても大切だということを実感した。
 
 「社会には、埋もれている事実がまだまだある」。社会部記者の言葉が印象に残っている。社会に埋もれた問題や人の声に耳を傾け、掘り起こし、人々に伝えていけるような記者を目指したい。この7日間で、新聞記者になりたいという漠然とした思いは、明確な目標へと変わった。