2012年4月6日金曜日

現場との距離

自分に与えられた業務の意味を考えないといけない。事務作業をやっていると、慣れてくるといかに目の前の業務を早く処理するか、効率よく終わらせるか、間違いなく確実にやるか、そういうことに意識が向かいがちになる。もちろんどれも大切だ。でも、それじゃ右にある箱を左に動かすこととたいして変わらない。


いまは現場と距離のあるところにいるからこそ、想像する。ぼくが周知した融資制度や、報告した統計がどういうかたちで現場に行き着くのか、どのような政策に反映されるのか、それは意味があることなのかそうでないのか。想像し、考えなければ、作業にのみこまれて、疲れた人間になってしまいそうだから。


これから2、3年は現場と政策を結ぶパイプにしかなれないかもしれない。事務は、そういう位置だから。でも、それでいい。この位置から見えるものを全て見て、もっと多角的な視点と、感性と、考えを養ってから現場に立つ。

2012年3月30日金曜日

不安

あー。これが当たり前になっていくのかなー。むしろ学生でいたころの方が特別なものになっていくのかなー。

そんな気がするよ。

社会人であることが当たり前で、収入とか人生設計とか、ある程度先を見通した生活とか、そういうものが普通な生き方になるのかなー。

そう思うと、なんかおもしろくない。

「創造性」や「挑戦」に向き合っていけるような生きざまを求めようよ。

仕事への不満ではない。

生き方への不安だ。

社会人3日前。


2012年3月21日水曜日

2012年3月20日の日記

こういう気持ちを、うまく言葉で表せない。慣れ親しんだ環境や、そのなかにいた自分自身や、大切な人たちから離れなければならないのはとてもさびしくて悲しくていやなことだ。でも。そういう感情を終始抱えていたのに、今日はとても幸せな1日だった。

どちらかといえば苦労や大変なことのほうが多かった学生生活をなんとか乗り越えられた達成感か、卒業論文を書き上げることができた充実感か、日常では特別意識していなかったけどぼくには好きだと思える場所や人がたくさんいたことに気づけた安心感のようなものなのかはわからない。たぶんすべてのこういう思いが合わさっているから、今日は幸せだと感じたのかもしれない。

実感がわかないなんてことはまるでない。引越しの準備が進んでいること、プロジェクトなどでお世話になった村の人たちから「ごくろうさま」「がんばってきて」、と見送られたこと、卒論で賞を貰えたこと、先生や在校生に送り出してもらえたこと、一緒に卒業しそれぞれの道へ進もうとする仲間としっかり別れのあいさつができたこと。こういう過程がここ数日に凝縮されていたから、ぼくはもう次へと踏み出す足に力を込めることができると思う。長かった学生生活を簡単に総括することはできないけど、社会に出て、いろいろな壁に直面しても振り返ることで力に変えることのできそうな経験や思い出はたくさんあるから、過去の自分や自分たちを思い出して前に進むきっかけをつかむこともできる気がする。

高いお金を払ってもらい4年間という時間を得た。そのつもりで頑張ってきたけど、大学で得たのは時間だけじゃない。なにかあれば(なにもなくても)立ち寄っていくことのできる母艦を得たこと、社会を捉える視点を示してくれた知識や先生に出合えたこと、立場や利害に関係なく底辺でしっかりとつながっていられる仲間ができたことは、ぼくの財産だしもっというならぼくの構成要素の一部でもあると思う。いまのぼくと、これからのぼくをつくってきたものでありつくっていってくれるものであると思う。

大変だったけど、大学いって本当によかった。


2012年2月18日土曜日

西へ

明確な目的とか、見たいものとか知りたいものがあったわけじゃない。計画も準備もほとんど何もできないまま、ただ、「空けておいた期間」が来てしまっただけだ。1週間。卒論もバイトも引越し準備も置いて無理矢理つくった時間なのに、その時間を満たすであろうものがまるでわからない。何をしたいか、何を見たいか、どうなるのかわからない。浮き足だった旅。だからとりあえず西へ向かう。

とりあえず西へ。くじらの町へ。



2012年2月3日金曜日

再・遠野まごころネット〜これからのために〜

カップヌードルと電子レンジで温めるだけの即席ごはん、野菜ジュース。朝食は全てボランティアへの支援物質で賄えた。その他にも缶コーヒーやレトルトカレー、お茶やホッカイロなども届いている。特に長期で活動している人にとって、収入の無い生活のなかで1日1000円を超える出費は金銭的に大きな負担だ。ボランティアへの支援物質は、長期にわたる復興を支える一助となっている。


今日は大槌町へ行った。箱崎よりも居住地が広く平坦な地形なため、建物の基礎だけ残した町の風景はさらに開けていた。


木片やビニールなどと絡まり岸に打ち上げられていた網を、違う用途に再利用するため、解きほどいていった。津波で流され、廃材となったものだけでバスケットボールのゴールを作るために使う。様々な街づくり構想のなかの一つらしい。絡まった網をほどき、適度な大きさに切り分けて、並べる。全てほどいたところで午前中の作業が終わった。


防波堤のそばを歩いて休憩所へ向かった。4〜5mほどの防波堤は崩れることのない壁に見えたが、所々、傾いていたり、崩れていたり、流されてしまい応急の土嚢が詰まれたりしていた。「防波堤があるから大丈夫」、と避難への思考を止めてしまった壁は、多くの犠牲者を出した一因だったという。ハード対策は、想定を超える事態に、想定を超えて対応できないことを、傾いている動かないはずだった壁が示していた。


大槌町の内陸にある「復興商店街」で昼食をとった。50mほどに並んだ2階建てのプレハブに、食堂や居酒屋、弁当屋やレンタルビデオ点、塾やソーラーパネルの販売店など様々な店が軒を連ねていた。街の商店の再生の足掛かりとなる、そんな場所だ。たくさんの意欲的な経営者が、様々な事業を、それぞれの町や地区で展開していくことで、そしてそこでお金の循環が生まれることで、人々の生活や町の風景の再生をリードしていく。沿岸部でこのような仮説商店街や横丁の設置の動きは活発化している。


家の基礎がきれいに見えるだけ、津波で流されてきた泥から家財道具までのさまざまなものの撤去は進んだといえる。ただ、大槌町で言えばまだ港湾近くの道端には行き場を失った流木や網やブイや缶詰めなどが放置されている。午後はそれらを少しずつ軽トラックに乗せて運び出した。大型機会の入れない細かな箇所は、まだまだボランティアによる片付けが必要とされている。雪かきなどもわざわざ税金を投入してまでやっていられない。災後11ヶ月を迎えようとしている今でも、人手は必要なのだ。


「たくさんの人がボランティアとして現地に入り、活動してくれることで、地元の人は勇気づけられ、復興は加速していく」、と、遠野の小さなバーのマスターは言っていた。そうだと思う。まだまだ終わっていない。まだまだこれからだ。復興の現場に立つことでそれを感じることができる。


梅雨明け7月の、36℃を超える容赦ない猛暑のなか、汗も筋肉痛も無視して泥や砂利を水路からすくい出していた経験が、いまもぼくの意識を箱崎町へと引き寄せ続けている。「いま、どうなっているだろうか」と、気になっていることが、たとえ少しの間しか居られないとしても、一目だけでも現状を見に行こうという行動につながっている。


大学が春休み期間に入りボランティアの数は多少増る傾向にある。が、多ければ多いほど良い。現場では、1人の存在の有無が作業の進行速度に関わってくる。


もうほとんど片付いてきているからとか、どうしたらいいかわからないからとか、忙しいからとか、自分のことで精一杯だからとか、足を運ばない理由はいくらでもあると思う。


でも、依然として人手は必要だし、インターネットで10分集中して調べれば行き方や参加の仕方は簡単に調べられるし、忙しさや自分の事情は結局は自分の考え方次第だ。


「困っている人のために」、という名目は確かに大事だと思う。けど、それだけじゃない。そういう文句だけでは災後に参加することの意味を捉えられない。 


復興の過程をこれからの未来をつくっていく人々が共有していくこと、が必要なんだと思う。

2012年2月2日木曜日

再・遠野まごころネット

池袋駅西口7番バス乗り場の前だけ、すっかりいつも通りの生活に戻った東京の雰囲気と少し違う。

岩手県沿岸部方面へ向かう高速バスに乗って、再び遠野へ向かうことにした。

朝6時半、遠野駅前で下車すると粉っぽく乾いた雪が20cmばかり市街を覆っていた。気温は-11℃。くつに雪が入らないように注意しながら、移転した遠野まごころネットの拠点を探し歩いた。

プレハブになった拠点は、以前より活気が衰えたように感じたが、洗面所やトイレは屋内に設置され、宿泊棟も畳張りになり、ボランティアの生活環境は向上していた。

夏に会った人が数人残っていた。日常の合間の、ほんの少しの時間だけ、当事者としてではなく第三者として手伝いに来ているぼくと違い、復興の現場の、最前線に立ち続け、震災とその当事者と向き合い続けている人がいる。本当に頭がさがる。


ボランティアの人数は大幅に減っていた。夏には5、6以上台のバスで3ヶ所以上の現場に200人以上が入っていたが、今朝は2台のバスで50人ほどが1ヶ所に向かった。


行き先は釜石市箱崎町。


半年ぶりの箱崎町に、大きな変化はなかった。積雪でよくはっきりとは見えなかったが、まだ多くの流木、材木、コンクリート片、家具や小物が家屋跡地には残っているようだった。一方で、郵便局やきれいに掃除された民家などがぽつぽつと建っていた。途中で通り抜けた釜石市街の商店街にも新たな店舗がいくつも開業していた。目に見える復興は、少しずつ進んでいる。地元の人の内面まではわからないけど、表情はいくらか落ち着きを取り戻しているように見えた。


作業は雪かきだった。車を持たないお年寄りが多く住む箱崎町にとって、公共バスは外へとつながる数少ない線となっている。バス停に住民が安全に歩いていけるよう、道路の雪をかき退けていった。炎天下、熱中症に脅えながら汗だくになって水路の泥だしをしていた7月より、時間は難なく過ぎていった。


少し汗ばむ程度で済んだが、夜は風呂に行くことにした。遠野駅近くの、4人も浸かれば窮屈になる小さな湯船のある銭湯だ。地元の数人の常連さんが利用する程度の売上で、体力的にも辛くなってきたため、銭湯のおばちゃんは閉鎖を考えていたらしい。そんな折に地震が起きた。そしてボランティア専属と言えるほど毎日遠野まごころネットの人が浸かりにきているという。地域経済にボランティア効果も少しは貢献しているらしい。

2011年8月2日火曜日

土地と人間 +伊江島

あの原発事故以降、放射性物質が降り注いだ農地を前に絶望している農民の現状を、テレビや新聞はくりかえし報道していた。でも、「きっと辛いんだろうな」の先を考えたことはなかった。


「ここ数ヶ月の間手伝ってきた畑の作物が、この前の台風で全滅した。ほんの少しの間しか農作業に携わっていなかったのに、ショックは大きかった」。昨晩宿泊した宿で働く青年が話してくれた。畑を毎日いじっていると作物やそれを育てる土に愛着がわいてくることは事実なのだろう。そして放射性物質による汚染で、もうそれらを愛でることができないのは無念だと思う。ただ「無念」という言葉で当事者の気持ちの輪郭を捉えられたとしても、その深さまでは測りきれない。


だから別の切り口から、人間と土地について考えてみた。


伊江港を起点に伊江島を右回りに自転車で15分ほど走ると、「反戦平和資料館」と書かれた木の看板が見えてくる。案内に従い狭い道路と砂利道を進むと、他の建物の後ろに隠れるようにそれが建っている。


エアコンのない建物の中は暑い。埃っぽいにおいが漂い、紙や写真などの資料館はほとんど色あせている。銃弾や爆弾、服や靴などの物品も無造作に、むき出しのまま机に並べられている。資料館というより倉庫のよう。どの資料も保存状態は極めて悪い。涼しい室内にきれいなパネルやケース入りの資料が整然と並べられている本島南部の資料館とは全く異なっていた。


室内はじわりと汗が出てくるほど暑いのに、ずっと鳥肌がたっていた。裸のままの資料が、伊江島の歴史をオブラートに包むことなく投げかけてきたからだと思う。


伊江島は沖縄戦の縮図と言われている。1945年4月16日、米軍が島南部の海岸線から上陸し、日本軍との間で6日間の攻防戦が展開された。十代の少年少女も戦闘に動員され、爆弾を抱えて敵に突撃していった。暗いガマの中では150人の住民が集団自決を強いられた。この戦闘で住民の3分の1にあたる1500人が、犠牲となった。


戦争が終わると、新たな戦いが始まった。


1955年、突然島にやってきた米軍は一部の集落の住民に立ち退き命令を出した。土地を奪われれば食べていくことのできない住民たちを無視し、米軍は家々を焼き払い、ブルドーザーで整地し基地を建設していった。


ベトナム戦争が本格化し、伊江島上空では爆弾の投下訓練がくり返された。頭上を飛び交う爆撃機、大きな音をたてて演習地や畑に着弾する模擬爆弾。伊江島での戦争は続いていた。


この状況に対し住民は、非暴力の抵抗運動を展開した。米軍や琉球政府などの交渉相手と対峙するとき、耳より上に手を上げない、常に相手に礼儀正しく接する、説得するつもりで丁寧に話しかけるなどのルールに準じた。本島での「乞食行進」や座り込みを通じて苦境を訴えた。


当時よりも範囲は縮小されたが、伊江島には未だに米軍の演習場が残る。土地の全面返還を求める闘いは伊江島を含め沖縄全土で続いているのだ。


なぜ伊江島の住民(ほとんどが農民)たちは、米軍の圧力や暴力に屈せず闘い続けることができたのか。


農民にとって土地は生の寄りどころだ。土地があることで食べていける。土地があることで農業を営むことができる。自分の生活、日常がある。愛着や親しみといった感情の対象としてだけでなく、自らの幸福や生きがいそのものなのだと思う。自己認識の要素であり自身の一部なのだ。


土地を奪われることは生きることをそしてその生き方を否定されることになってしまう。だから闘わなければならなかった。
ぼくはそう思う。


ちなみに、伊江島の抵抗運動で住民たちをリードした阿波根昌鴻には、「農民学校」をつくる、という夢があった。農民は人間の命を直接支えている重要な存在だ。しかし、彼らの生活はいつの時代も貧しかった。ただただ権力者や社会に搾取されるだけの存在になってはいけない。農民自身が政治や経済を学び、社会での発言力を獲得しなければならない。このような考えのもと、阿波根は、半日は農作業、半日は座学。年齢、性別で入学を制限せず、学費は無料。というような構想を練っていた。だが開校直前に米軍が上陸し土地を奪われ、いまも実現していない。


農民の主権を訴えた阿波根は、「土地」本来の力(生産資本としての)を生かしきれていない現代を誰が変えていくべきなのか明確に示している。


「あなたは、世の中にとって一番大切なことを勉強していますね」

展示を見たあと、資料館の管理をしているという女性に大学での専攻を問われ農学分野を学んでいると答えるとこう返ってきた。いつの時代も人間を支えてきた農の営みは命の根源だから、と。女性は阿波根と共に土地の返還を求めてきたという。


一次産業が世の中でどれほど重要な位置にあるのか、あまり真剣に考えたことはなかった。だが伊江島に来て、農(土地活用の営み)と命と平和とが強く結びついていることに気づかされた。過去、農民が苦しんでいる時代は、あまり良い時代ではなかった。


いまはどうだろうか。原発事故によって日本農業がどれだけのダメージを負ったのか、具体的な数字は出ていない。潜在的な傷は深いのかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、一次産業に携わる人で将来に不安を感じない人はいないと思うし、少なくとも彼らが未来に希望を持てる時代ではない。


土地を生かす営みを、土地を生かす人間を、そして土地そのものを守ることに命を懸けた人々の姿から、もっと本質を学んでくるべきだったのではないかと、「現代の豊さ」に浸る一人として後ろめたい気持ちで伊江島をあとにし、いま世田谷の住宅街を歩いている。

ちなみに、家はもうすぐそこだ。