「ここ数ヶ月の間手伝ってきた畑の作物が、この前の台風で全滅した。ほんの少しの間しか農作業に携わっていなかったのに、ショックは大きかった」。昨晩宿泊した宿で働く青年が話してくれた。畑を毎日いじっていると作物やそれを育てる土に愛着がわいてくることは事実なのだろう。そして放射性物質による汚染で、もうそれらを愛でることができないのは無念だと思う。ただ「無念」という言葉で当事者の気持ちの輪郭を捉えられたとしても、その深さまでは測りきれない。
だから別の切り口から、人間と土地について考えてみた。
伊江港を起点に伊江島を右回りに自転車で15分ほど走ると、「反戦平和資料館」と書かれた木の看板が見えてくる。案内に従い狭い道路と砂利道を進むと、他の建物の後ろに隠れるようにそれが建っている。
エアコンのない建物の中は暑い。埃っぽいにおいが漂い、紙や写真などの資料館はほとんど色あせている。銃弾や爆弾、服や靴などの物品も無造作に、むき出しのまま机に並べられている。資料館というより倉庫のよう。どの資料も保存状態は極めて悪い。涼しい室内にきれいなパネルやケース入りの資料が整然と並べられている本島南部の資料館とは全く異なっていた。
室内はじわりと汗が出てくるほど暑いのに、ずっと鳥肌がたっていた。裸のままの資料が、伊江島の歴史をオブラートに包むことなく投げかけてきたからだと思う。
伊江島は沖縄戦の縮図と言われている。1945年4月16日、米軍が島南部の海岸線から上陸し、日本軍との間で6日間の攻防戦が展開された。十代の少年少女も戦闘に動員され、爆弾を抱えて敵に突撃していった。暗いガマの中では150人の住民が集団自決を強いられた。この戦闘で住民の3分の1にあたる1500人が、犠牲となった。
戦争が終わると、新たな戦いが始まった。
1955年、突然島にやってきた米軍は一部の集落の住民に立ち退き命令を出した。土地を奪われれば食べていくことのできない住民たちを無視し、米軍は家々を焼き払い、ブルドーザーで整地し基地を建設していった。
ベトナム戦争が本格化し、伊江島上空では爆弾の投下訓練がくり返された。頭上を飛び交う爆撃機、大きな音をたてて演習地や畑に着弾する模擬爆弾。伊江島での戦争は続いていた。
この状況に対し住民は、非暴力の抵抗運動を展開した。米軍や琉球政府などの交渉相手と対峙するとき、耳より上に手を上げない、常に相手に礼儀正しく接する、説得するつもりで丁寧に話しかけるなどのルールに準じた。本島での「乞食行進」や座り込みを通じて苦境を訴えた。
当時よりも範囲は縮小されたが、伊江島には未だに米軍の演習場が残る。土地の全面返還を求める闘いは伊江島を含め沖縄全土で続いているのだ。
なぜ伊江島の住民(ほとんどが農民)たちは、米軍の圧力や暴力に屈せず闘い続けることができたのか。
農民にとって土地は生の寄りどころだ。土地があることで食べていける。土地があることで農業を営むことができる。自分の生活、日常がある。愛着や親しみといった感情の対象としてだけでなく、自らの幸福や生きがいそのものなのだと思う。自己認識の要素であり自身の一部なのだ。
土地を奪われることは生きることをそしてその生き方を否定されることになってしまう。だから闘わなければならなかった。
ぼくはそう思う。
ちなみに、伊江島の抵抗運動で住民たちをリードした阿波根昌鴻には、「農民学校」をつくる、という夢があった。農民は人間の命を直接支えている重要な存在だ。しかし、彼らの生活はいつの時代も貧しかった。ただただ権力者や社会に搾取されるだけの存在になってはいけない。農民自身が政治や経済を学び、社会での発言力を獲得しなければならない。このような考えのもと、阿波根は、半日は農作業、半日は座学。年齢、性別で入学を制限せず、学費は無料。というような構想を練っていた。だが開校直前に米軍が上陸し土地を奪われ、いまも実現していない。
農民の主権を訴えた阿波根は、「土地」本来の力(生産資本としての)を生かしきれていない現代を誰が変えていくべきなのか明確に示している。
「あなたは、世の中にとって一番大切なことを勉強していますね」
展示を見たあと、資料館の管理をしているという女性に大学での専攻を問われ農学分野を学んでいると答えるとこう返ってきた。いつの時代も人間を支えてきた農の営みは命の根源だから、と。女性は阿波根と共に土地の返還を求めてきたという。
一次産業が世の中でどれほど重要な位置にあるのか、あまり真剣に考えたことはなかった。だが伊江島に来て、農(土地活用の営み)と命と平和とが強く結びついていることに気づかされた。過去、農民が苦しんでいる時代は、あまり良い時代ではなかった。
いまはどうだろうか。原発事故によって日本農業がどれだけのダメージを負ったのか、具体的な数字は出ていない。潜在的な傷は深いのかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、一次産業に携わる人で将来に不安を感じない人はいないと思うし、少なくとも彼らが未来に希望を持てる時代ではない。
土地を生かす営みを、土地を生かす人間を、そして土地そのものを守ることに命を懸けた人々の姿から、もっと本質を学んでくるべきだったのではないかと、「現代の豊さ」に浸る一人として後ろめたい気持ちで伊江島をあとにし、いま世田谷の住宅街を歩いている。
ちなみに、家はもうすぐそこだ。

2 件のコメント:
僕の働く農場では、原発による被害の内、出荷できなかった葉ものの金額は低く見積もって400万円、その他にも中国から毎年夏になると助っ人に来るはずの労働者が来ないという被害がある。前者の被害は、設備投資が大変だった農場の代表にとってはかなりの痛手で、震災後はかなり陰鬱とした人に変わり果てたと代表の長男が語っていた。後者の被害は今働き手として毎日畑に出ていてしみじみ実感する。作業をどんなにがんばっても、一人で二人分働くことは不可能だ。5人で10ヘクタールの農地を世話するはずだが、どの仕事も予定通り終わらない。今日はネギ畑の除草をしたが、5月に植えつけた苗約2万本の内半分は雑草の茂みに覆われて芯まで溶けて駄目になってしまった。そのネギを見て、僕に今日「お疲れさん」と言った働き仲間のHさんは目に涙を浮かべて頬を震わせていた。その気持ちは僕もよくわかる。そして、農家が能天気に生きた時代なんてなかったんじゃないかな、歴史の中で、とも思った。
そうだよね。農家が能天気に生きた時代なんてない。いつだって自然、経済、社会の情勢に影響を受けてきた。
ただ今回の事故は重すぎるよ。現場にいなくても、傍から見ていてもそう思う。実際に農場で働いている君やその仲間の、そして当事者の農家の方々の心境がどういうものなのか、わからないよ。ここからでは。
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